テラーノベル
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彼女の泣きわめく声が耳の奥に残った。
けれど、俺の頭の中はもう真っ白だった。
混乱の嵐の中に放り込まれたようで、何をどう説明すればいいのか分からなかった。
ちひろは、俺を狙っていた。
テオに危害を加えるつもりなんてなかったはずだ。
けれど──それなのに。
どうして。
どうして、あんなふうに庇ってくれたんだ
「テオっ!!!」
病院の廊下
手術室の前で、俺はただ祈るように立ち尽くしていた。
唇を噛み、血が滲むのも気づかずに。
俺があの場にいなければ、テオは怪我をしなくて済んだ。
全部俺のせいだ。
なのに、なんで俺なんかを庇ってくれたんだ
(刺されるなら、俺が良かった…俺でよかったのに…)
やがて、処置室のドアが開く。医師が姿を見せた。
「……あのっ!テオは…テオは大丈夫なんですか……?!」
「ええ、命に別状はありません」
「本当ですか……!?」
「出血が多いですが、傷自体は浅いものなので安心してください」
その言葉を聞いた瞬間、足の力が抜けた。膝から崩れ落ち、その場に座り込んだ。
「……よかった……」
──本当に、よかった。
もしテオがこのまま死んでしまっていたら、俺は一生自分を許せなかった。
後悔して、悔やんで、きっと壊れていた。
*
病室。
点滴スタンドが微かに揺れる静かな室内で
俺はベッドの傍らに膝をついたまま、テオに頭を下げていた。
「テオ、本当に申し訳ありませんでした。俺を庇ったばかりに…」
悔しさと罪悪感が胸を締めつける。
こんなことになるくらいなら、俺なんか、最初から存在しなければよかった。
「お前のせいじゃねぇ」
テオの声が静かに響いた。
「でもっ」
「オメガを守るのはアルファの役目だろ」
その一言が胸に刺さる。苦しい。でも、同時に、どうしようもなく嬉しかった。
「……っ……」
そして、テオは言った。
「あとな、もう1人ここに呼んでんだ」
そのとき。
病室の扉がノックされ、ゆっくりと開いた。
現れたのは──他でもない、テオを刺した張本人、ちひろだった。
「ちひろ……?」
俺は声を失った。理解が追いつかない。
なぜここに?
ちひろの瞳から涙が溢れ、声にならない嗚咽を漏らしながら、ベッドのテオを見つめた。
「あ……ぁ……テオさま……テオさまぁ……っ!!ごめんなさい……!!こんなつもりじゃ……本当にごめんなさい……!!」
「…別に大した怪我じゃねえ、俺はすぐに復帰出来る」
「でっ……でも……!!」
「…ただ、なんでこんなことした。翼を利用して俺に近づこうとしたのに、そんな翼が俺と番になったことへの嫉妬か」
その問いに、ちひろの肩がびくりと震えた。
声が出せないまま、怯えた目で彼女は立ち尽くしていた。
「……言えよ」
沈黙のあと、彼女は呟いた。
「……テオが、悪いのよ」
そうして堰を切ったように叫び始めた。
「……私……私は……」
小さな声が病室に落ちる。
嗚咽を堪えるように肩を震わせながら
ちひろが絞り出した言葉は、途切れ途切れで意味をなさなかった。
「言えよ」
テオの声は低く、けれど突き放すような冷たさではなかった。
あくまで、真っすぐに向き合う姿勢のまま、彼女の視線を静かに受け止めている。
しばらく、重い沈黙が流れた。
ちひろは唇を噛み、喉の奥を震わせ
何度も言葉を飲み込もうとしたが、そのたびに涙が滲む。
「……」
そしてついに、決壊したように声が上がった。
「……テオが、悪いのよ……っ」
語尾が震え、感情が爆発する。
それは怒りとも、悲しみとも、痛みともつかない。
ただただ積み重なってきた想いの、末端が崩れ落ちた音だった。
「私は……っ、ずっとテオのことを追いかけてきた……!」
泣き叫ぶようなちひろの声が、密閉された病室に響いた。
目の前の人間が芸能人であることなど、もうどうでもよくなっていた。
彼女はただ、一人の“好きで好きで仕方なかった人間”として、魂ごとぶつけていた。
「テオが4年前に、握手会で認知してくれたとき、生きててよかったって……本気で思った。」
「出演するドラマもCMも、全部録画して、何度も何度も見返して、映画は……二十回も行ったの!」
「特典も、限定グッズも、揃えた、手紙も送った。何十通も、何百通も、生活費だって削った」
「バイトだって増やして、テオのアルバムやグッズに全部注ぎ込んで、雑誌は観賞用と保存用と持ち運び用の三冊買って──」
ちひろはとめどない涙で頬を濡らしていた。
声は震え、喉を詰まらせながらも、ちひろは止まらなかった。
「三年前のライブ、最前列取れたとき……嬉しすぎて、発狂しかけた」
「二回目も、また最前列取れて……本気で、オキニなんじゃないかって…期待したの……!」
「うぜぇ害悪女の匂わせや芋女からのマウントも乗り越えてTwitterとか掲示板でガチ恋きもいとか他のリスナーに叩かれてもずっとずっと推してきたのに、死ぬほどテオのこと好きなのに」
「3年前に翼に近づいてまでテオと繋がろうとしたのに上手くいかないし、そしたら今、翼と番なったとか受け入れられるわけなくない?!」
「こっちは5年も繋がりたいってパコりたいって結婚したいって思ってるのに、大好きで大好きで仕方ないのに!」
「クソみてぇな距離感に気絶しそうになるし泣きたくなるし!テオだけが私の、私らの生き甲斐なのに、そんなテオにあんなあっけなく番できましたなんて言われて納得出来るわけねぇだろ!!」
彼女は息を吸うたび喉がひゅうと鳴る。
「信者はテオの言うこと聞くよ!普通のファンはお似合いだとか並べて喜んでくれるよ!!?でもその裏で……っ!私みたいなクズは翼のこと殺したいほど憎んでんだよ!!」
「確かに……?テオに番ができるなんてテオの勝手だけど、推しには誰のものにもなって欲しくない…これ以上遠い存在になったら私どうすればいいのって、叶わない恋すぎて死にたくなった」
その姿はもう、俺が知っている“テオに近づこうとして俺を利用した女”ではなかった。
ただのひとりの、恋をこじらせて道を踏み外した
弱くて愚かで、でも誰よりも本気だったひとりの人間だった。
「元々手の届く存在じゃないなんてこと分かってるけどさ!」
その叫びは、ちひろの叫びというより
何万人もの“報われなかったガチ恋”の代弁のようだった。
「しょうがないじゃん…っ!!好きなんだから!」
彼女は泣きながら、がむしゃらに訴えるように声をあげた。
はあ、はあ……と肩で息をしながら、ちひろはうつむいた。
そして、掠れた声でぽつりと呟く。
「ねえ、テオ……全部、わかってるよ……。
こんなの、ただの押しつけだって……でも……でも、さ……耐えらんないよ……」
テオはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐いて、口を開いた。
「──お前、いつもツインテールに、青色のインナー入れてたよな」
「……えっ」
ちひろが顔を上げた。目を見開き、凍りついたように固まる。
「今はショートにしてるから、最初わかんなかったけどな」
テオは淡々と続けた。
「手紙も、毎回8枚ぐらいぎっしり書いてあった。
誕生日になると、毎年マカロン送ってきてくれてただろ。俺の好物、調べて」
沈黙が落ちた。
そして次の瞬間──
ちひろの目から、大粒の涙が音を立ててこぼれた。
「……お、覚えてて……くれたの……?」
声は掠れていた。言葉の意味すら、信じられないといった顔だった。
テオは小さく、呆れたように笑った。
「当たり前だろ」
その一言に、ちひろはその場に崩れるように膝をつき、顔を両手で覆って泣き出した。
わんわんと子供のように、声をあげて泣く。
その姿は、憎しみも嫉妬もすべて超えて
ただひたすらに“報われなかった誰か”の姿そのものだった。
テオはそっと彼女の頭に手を伸ばし、ぽん、と撫でた。
「……すげえな、って思ってたんだ。こんな熱心なファンがいるんだなって」
「だから……お前が俺を刺したぐらいで、嫌いにはならねぇ」
その言葉に、俺は一瞬息を呑んだ。
だが、テオの言葉には嘘がなかった。
「──でもな。俺にとって、翼はもう……本当に大切なやつになっちまった」
「だから、あのツイートをした。
“俺のファンなら理解しろ”とは、言わねぇ」
「けど……俺を、これからも推すか、推さないかは……お前が決めろ」
しんと静まり返った病室のなかで、ちひろはしばらく何も言わなかった。
泣き声だけが、空気を震わせていた。
やがて、小さく、けれど確かに──彼女は頷いた。
涙で濡れた顔のまま、声を殺して
何度も、何度も。
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