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第14算話 ご破算
その日は、坂の上から来る風が妙に乾いていた。
軽いのに、喉の奥へ残る。
町の形は変わらない。
用水路は細く鳴り、石段の角にはいつもの欠けがあり、駄菓子屋の看板も少しだけ揺れている。
でも、ローリエの中だけがいつもと違っていた。
終わらせる時に終わらせる。
ルクスの一打が、まだ胸の中で細く光っている。
途中のきれいさだけじゃ足りない。
積んでも、掛けても、切っても、残しても、
最後に手放す覚悟がなければ、式はずっと途中のままだ。
戸を開けると、甘い粉のにおいが流れてきた。
おばあちゃんはレジの横で缶のふたを重ねていた。
その手の動きは静かで、速くないのに、遅い場所がない。
「いらっしゃい」
ローリエはかばんを下ろし、そろばんを机へ置いた。
木枠が鳴る。
その音が、今日は少しだけ深い。
「ご破算、やりたいです」
おばあちゃんの手が止まる。
缶のふたがひとつ、薄く鳴った。
「やっとそこまで来たかい」
「まだ分かってないです」
「分からんまま触るもんもある」
おばあちゃんはそう言って、レジの下からいつもの木箱を出した。
珠の入った箱。
水色、茶色、軽い珠、少し重い珠。
どれも静かに並んでいる。
「ご破算って」
ローリエは言いかけて、少しだけ言葉を探した。
「大きい技っていうより」
「うん」
「終わらせる決め方ですよね」
おばあちゃんは頷いた。
「積んだもんを、戻らん形で前へ出す」
戻らん形。
その言い方で、ローリエの胸の奥が少しだけ固くなる。
今まで積んだものを、全部手放す。
途中の余りも、次へ残す継ぎ目も、全部。
残したくて残してきたものまで、そこで零にする。
「こわいです」
ローリエが正直に言うと、おばあちゃんは少しだけ目を細めた。
「そうじゃろね」
否定しない。
軽くもしない。
「外したら、空っぽになる」
「うん」
「そのあと、向こうがまだ立ってたら」
「うん」
「もう、何もない」
おばあちゃんは木箱を開けたまま、ローリエを見る。
「それでも打つ時がある」
その言葉が、今日の坂の空気みたいに乾いて残った。
戸の外で、足音が止まる。
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が、戸の横から顔を出していた。
ふたりとも、今日は笑っていない。
何かあると分かっている顔だった。
その後ろから、もうひとつ足音がした。
イオウだった。
黄緑寄りの髪が風に触れて揺れる。
#第3回テノコン
ひなーびぃ@続編連載中✌️
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薄い灰色の上着の裾を片手で押さえながら、戸口で止まる。
「へえ」
その目が、ローリエとそろばんを順に見る。
「今日は重いやつ?」
ローリエは少しだけ肩を上げた。
「たぶん」
「じゃあ、ちょうどいい」
イオウはそう言って、店の中へ入ってきた。
前みたいな軽さはある。
でも、前より少しだけ、こちらの手元をちゃんと見ている。
おばあちゃんが言う。
「相手してもらうかい」
イオウは肩をすくめる。
「いいよ」
短い髪の子がすぐに前へ出る。
「今度はローリエ勝つから」
イオウはその言葉に、少しだけ笑った。
「それなら面白い」
外へ出る。
石段の脇。
用水路の細い音。
夕方にはまだ少し早い光。
見慣れた場所なのに、今日はそこへ終わりの形だけが先に置かれている気がした。
イオウは前より少し離れて立つ。
速い相手。
待たない相手。
でも、今日のローリエの胸の中には、それだけではない重さがある。
「先いいよ」
イオウが言う。
ローリエは頷く。
今日は最初から、ご破算を打つつもりで積むわけじゃない。
そんなことをしたら、最初の一歩から終わりへ怯えるだけになる。
でも、今日どこかで打つかもしれない。
その可能性だけは、最初から手の中へ入れておく。
水色を上へ。
茶色を下へ。
軽い珠を右へ。
最後はまだ置かない。
上から。
止める。
下から。
止める。
右へ、浅く。
イオウはもう珠を持っている。
指が速い。
待たない。
それでも今日は、その速さに前ほど飲まれない。
ローリエは弾いた。
パチ。
浅い広がり。
遅れて受け。
最後はまだ残す。
イオウの一打がすぐ来る。
パチ、パチ。
短い。
細い。
でも今日は、その細さの中の隙間が少しだけ見える。
前より、遅れていない。
ローリエは次で継ぐ。
途中を拾う。
右へ足す。
軽く返す。
イオウの足元が半歩だけずれる。
短い髪の子が、塀の向こうで小さく声を上げる。
「今の、近い」
ローリエの胸の奥で、少しだけ熱が立つ。
前なら、ここでもっと積みたくなった。
もっときれいに整えたくなった。
今もその癖はある。
でも今日は、その先に別のものが見えている。
終わり。
イオウは笑っていない。
目だけが速く動く。
こちらの途中を見て、次の軽い連打を置こうとしている。
来る。
ローリエはその前に、もうひとつ重ねた。
水色ではなく、深く出やすい自分の珠を途中へ。
軽いつもりで、少しだけ重い。
そのずれごと置く。
弾く。
受けが立つ。
押し返す。
そこで、本来ならもう一段、きれいに整えたい。
でも、イオウの指はもう次へ走っている。
終わらせるなら、ここだ。
頭のどこかがそう言った。
まだ浅い。
まだ足りない。
もっと積める。
もっときれいにできる。
その声も、もちろんある。
でも、その声の通りにしたら、次が来る。
ローリエは、初めてそこで迷いを切った。
そろばんの中に残っている並び。
途中で拾った流れ。
まだ打っていない右の意味。
その全部を見たまま、でも次へ足さない。
「……いく」
誰に言うでもなく、口の中でそう言った。
おばあちゃんの声は飛んでこない。
短い髪の子も、結び目のゆるい髪の子も黙っている。
イオウだけが、少し目を細める。
ローリエは珠へ指をかけた。
ご破算。
積んだものを、全部前へ出す。
零に戻す。
残りをなくす。
打つ。
パチン、と、いつもより少し深い音がした。
次の瞬間、今までそろばんの中で細く立っていた流れが、全部まとめて前へ押し出される。
広がりも、
受けも、
浅い押しも、
途中で残した未定義も、
全部。
空気がひとつ遅れて膨らみ、石段の前で低く鳴る。
イオウの軽い連打がそこへ入る前に、まとめて呑まれる。
「っ……!」
イオウの体が大きくぶれた。
速い相手のはずなのに、今の一瞬だけは、その速さが全部遅れた。
足元の砂が浅く爆ぜ、石段の手前の空気が押し上がる。
派手ではない。
でも、十分だった。
連打へ行くための前足が止まり、そのまま体勢が崩れる。
イオウは膝をつかなかった。
けれど、一歩、二歩と後ろへ流され、最後に石段の縁へ手をついた。
そこで、終わった。
終わった、と分かったのは、向こうが止まったからだけではない。
ローリエのそろばんの中が、急に静かになったからだ。
珠が、零へ戻っている。
さっきまで積んでいた意味が、跡形もなく消えている。
途中も、余りも、継ぎ目も、何もない。
ローリエの指が、その空っぽを見て固まる。
勝った。
たぶん。
今の一打で、たしかに勝った。
なのに、胸の奥へ最初に来たのは喜びじゃなかった。
空だ。
その実感が、ひどく重かった。
「……まじか」
イオウが石段へ手をついたまま、息を吐く。
その声で、短い髪の子がようやく飛び上がるみたいに声を出した。
「勝った!」
結び目のゆるい髪の子も、遅れて両手をぎゅっと握る。
「ローリエ!」
でも、ローリエはすぐには顔を上げられなかった。
そろばんの中が空っぽだった。
さっきまであったものが、本当に何もない。
打った後の次がない。
もう一度来られたら、ここから組み直すしかない。
その組み直しの遠さが、勝った直後に押し寄せてきた。
おばあちゃんが石段を下りてくる。
足音は静かだ。
でも、今日はその静けさがやけに近く聞こえる。
「立っとるかい」
ローリエは小さく頷いた。
でも、自分の足が少しだけ遅れて答えている感じがした。
イオウが立ち上がる。
膝の土を払う。
目の前まで来るわけではない。
少し離れたまま、ローリエのそろばんを見た。
「今の」
息を整えながら言う。
「ずるいな」
短い髪の子がすぐに言い返す。
「勝ったからいいの」
イオウは笑う。
でも悔しそうでもある。
「いや、そうじゃなくて」
視線はローリエの手元のまま。
「ちゃんと終わらせに来た」
その一言で、ローリエはようやく顔を上げた。
終わらせに来た。
たしかにそうだった。
途中を残すつもりでは打たなかった。
次へつなぐためでもなかった。
そこで終わらせると決めて、打った。
だから、ご破算だった。
おばあちゃんが、そっと言う。
「分かったかい」
ローリエは、自分のそろばんを見る。
空だ。
静かだ。
そして、少しだけ遠い。
「……技じゃない」
おばあちゃんは頷く。
「うん」
「決めることなんだ」
「うん」
ローリエは、そこで初めて深く息を吐いた。
ご破算。
今まで名前としてだけ知っていたもの。
大きい技。
強い一撃。
そんなふうに思っていた。
違った。
積み上げたものを手放す決断だ。
次を残さない覚悟だ。
終わりを、自分の手で決めることだ。
結び目のゆるい髪の子が、そろばんの中を覗き込む。
「ほんとに、なくなってる」
短い髪の子も、息をひそめる。
「からっぽ……」
からっぽ。
その言葉が、今のローリエにはひどく正確だった。
勝った。
でも、その代わり、自分の中に残していた支えも全部手放した。
軽くなったんじゃない。
むしろ、次を組み直す遠さだけが、はっきり残る。
イオウが石段の縁をつま先で鳴らす。
「これ、外したら終わるやつだろ」
ローリエは頷いた。
「うん」
「よく打ったな」
それは前のイオウなら言わなかった言葉だった。
速さだけで押し込んでいた頃の顔と、今の顔は少し違う。
向こうも、何かを見ているのだろう。
ローリエは、自分でも少し驚きながら答えた。
「打たないと、終われなかったから」
その言葉が口から出た瞬間、ようやくしっくりきた。
そうだ。
もっと積む選択肢もあった。
もっと掛ける選択肢もあった。
もっときれいに繋ぐこともできたかもしれない。
でも、それでは終われなかった。
どこかでまだ次を残し、次に頼り、途中へ逃げていた。
今日はそこを切った。
だから届いた。
おばあちゃんが、レジの方へ戻りながら言う。
「勝ったあとが重いじゃろ」
ローリエはすぐに頷けなかった。
言い当てられすぎていたからだ。
「……はい」
「零から組み直すってのは、思っとるより遠い」
その言葉に、ローリエは空になったそろばんの珠を見た。
ほんとうに零だ。
次に打つなら、最初から。
また上から。
また下から。
また止めて、また決める。
長い。
でも、それを含めて打ったのだ。
短い髪の子が、少しだけ顔をしかめる。
「勝ったのに、なんか大変そう」
イオウがそこで笑った。
「大変なんだよ、ああいうのは」
結び目のゆるい髪の子が、小さな声で言う。
「でも、きれいだった」
ローリエはその言葉に、少しだけ胸の奥がやわらぐのを感じた。
きれいだった。
派手じゃない。
大きくもない。
でも、終わり方としては、たしかにひとつの形だったのかもしれない。
おばあちゃんがレジ横の缶をひとつ鳴らす。
「帰る前に、一本だけやっときな」
ローリエは顔を上げる。
「今ですか」
「今じゃないと、空の重さだけ残る」
その言い方に、ローリエは少しだけ苦笑した。
でも、すぐに理解する。
このまま帰れば、勝ったことより、空になったことの方が強く残る。
ローリエはそろばんを持ち直した。
空のまま。
そこへ、水色をひとつ。
茶色をひとつ。
軽い珠をひとつ。
最初から。
上から。
止める。
下から。
止める。
右へ、軽く。
たったそれだけなのに、指が少し重い。
さっきまであったものを全部捨てたあとだからだろうか。
何もないところから始めるのは、勝った直後ほど遠い。
弾く。
小さく、紙袋が揺れた。
それだけだった。
でも、その小ささがありがたかった。
まだ、次はある。
零に戻したあとでも、また置ける。
遠いけれど、置ける。
ローリエはその揺れを見て、やっと肩の力を抜いた。
おばあちゃんが小さく頷く。
「それでええ」
イオウは壁へもたれながら、手を振った。
「今日は帰る」
短い髪の子がすぐに言う。
「負け逃げ」
「勝った側が言うなよ」
そのやりとりに、ようやく空き地の空気が少しだけ軽くなる。
結び目のゆるい髪の子が、そっとローリエを見る。
「からっぽって、こわいね」
「うん」
ローリエは正直に頷く。
「でも、こわいから、たぶん打つ時が分かる」
その言葉に、自分でも少しだけ驚いた。
でも、もう口にしてしまった以上、それは本音だった。
ご破算は、ただ強いから使うものじゃない。
空になる怖さを引き受ける時にしか打てない。
その怖さごと前へ出す一手だ。
短い髪の子がラムネを握りしめる。
「じゃあ、むやみにやっちゃだめだ」
「うん」
「でも、また見たい」
ローリエは少しだけ笑った。
「見るだけで済むならね」
夕方の風が、石段の端を細くなでる。
看板の紐が鳴る。
用水路の音が少しだけ近い。
町はいつも通りだ。
でも、ローリエの中では、終わりという形が前よりずっとはっきりした。
積む。
掛ける。
切る。
残す。
そのどれも必要だ。
でも、最後に全部を零へ戻して終わらせる一手がある。
それは大技なんかじゃない。
華やかなだけのものでもない。
積み上げたものを、自分で手放す決断だ。
ローリエはそろばんをかばんへ戻した。
木枠が教科書へ当たる。
その音は、今日は少しだけ軽かった。
空になったあと、また置けることを、今、ようやく知ったからだった。
コメント
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やっと読んだよ……第14算話「ご破算」…!!!😭💦 ご破算って「強い技」じゃなくて「積んだものを全部手放す覚悟」なんだね…その定義にまず震えた。イオウ相手に打つ決断、空っぽになった後の重さ、それでもまた置けることを知るラスト。全部が綺麗に噛み合ってて、終わり方の美しさに泣きそうになったよ🥺✨ 勝ったあとが一番重いっておばあちゃんの言葉、すごく胸に残った…「零から組み直す遠さ」も含めて、ローリエの成長がじんわり沁みる回だった🌸