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畏怖《いふ》の念は無い。其《そ》れ処《どころ》か久しぶりの強敵に心が踊り昂《たかぶ》っていた。敵《かな》わぬであろう相手と対峙しても尚、自らが生きていると云《い》う証《あかし》を欲していた。
絶えず命を捨てる覚悟をしてきた。いや、死に場所を探していたのかもしれない。生に執着する程、誰かを愛し、誰かに愛され、誰かに必要とされた事は無かった。
そんな生きた屍に「その命を俺に預けてくれないか」と頭を垂れた男《ひと》が居た。真っ黒な心の闇に、初めて日の光が差し込んだ気がした。その光は何時《いつ》しか徐々に大きくなり、気付くとそれが生きる理由と成っていた。
孤独の戦士 ヴェイン・ミルドルド
数多《あまた》の戦場を駆け、数多の者を殺《あや》めて来た、血塗られた過去を持つ戦人《いくさびと》は、初めて誰かを守る為、今一度、戦場の修羅と化す。
生きる理由を無くさぬ為に……
四つに構え黒い毛皮を被った悪魔が咆哮《ほうこう》し、見た目からは想像出来ない程の疾《はや》さで砂埃を上げ迫り来る‼ ヴェインはまるで予知していたかの如く、切っ先を構え、冷静に腰を落とし、迫り来る恐怖を物ともせず、相手の強襲に剣筋を合わす。
研ぎ澄まされた集中力は相手の動きを駒送り《スローモーション》にする。
領域を侵犯する者に鋼の鉄槌《てっつい》を下す。大熊が腕を振るうよりも迅《はや》く、一気に踏み込み掻い潜り、西陽《にしび》に映《は》えた切っ先を、全体重を乗せ突き放つ―――――‼
バキンと牙を粉砕し顎《あご》が割れる。更にその場で踵《きびす》を返すと、それを回転軸として身体を捻《ひね》り、ゴゥと勢いを乗せ、人喰い大剣が獣を喰らう。
側頭部からドガンと衝撃音が響き、間髪入れず顔面を無慈悲に薙ぎ払う。
グアアアアと絶叫と共に血飛沫《ちしぶき》が吹き上がる。
無骨なまでの剛剣は、切る為にあらず、己の力で以《も》って捻じ伏せる修羅の剣。
大熊は堪《たま》らず立ち上がり、歪《ゆが》み崩れた顔面を両の手で労《いたわ》り隠す。
(時を得た――――― )
好機到来《こうきとうらい》、この機逃さず、その場で前転をし反動をつけ、立ち上がり間《ま》に大きく踏み込み、大熊の腹を突き刺した。
ゴアアア‼ 両腕を天に仰ぎ痛みに悶える。
大剣はその腹にめり込み血を滴らせるが、踏み込みに焦りが生じ致命傷には至らない。
(ちっ‼ 浅いか――――― )
更に踏み込み、大剣を深く突き刺そうとした刹那《せつな》、腹に刺さった大剣を振り払わんばかりに暴れ出し、不意に振るわれた爪先に、大剣ごと弾かれ飛ばされた。
ドガンガガンと身体が幾度《いくど》も跳ね上がり、空が何度も視界を横切る。手負いの獣の一振りは、大柄なヴェインでさえも容易《たやす》く撥《は》ね退《の》け、更に激しさを増し激昂《げきこう》する。
額《ひたい》から頬を伝う熱い物を感じながら、剣に身体を預け起き上がり、不敵な笑みを浮かべた。
「ごふっ…… そうか…… てめーも必死か、俺も必死だ、俺を殺りたきゃ覚悟しろ、腕一本はもらって逝《い》くぞ」
すると、グランドの悲痛な叫びが飛び込んで来る。
―――――⁉
「シルヴァ―――――‼」
ヴェインが視線を投げると、シルヴァの身体が大熊の鋭い爪に搗《か》ち上《あ》げられ、力無く崩れ落ちる所だった。
満身創痍《まんしんそうい》のグランドは身体を引きずりシルヴァの元へ駆けつける。片目の大熊は勝利を確信し、ゆっくりとグランドに迫り寄った。
多事多難《たじたなん》……
「くそっ」とヴェインは呟き、短期で仕留めきれなかった後悔を恨むと同時に、グランドを守る為の最善策を模索《もさく》する。
(どうする―――――⁉ どうすりゃいい―――――⁉ )
目の前の大熊が耳を劈《つんざ》く程、一層激しい咆哮を上げる。今からお前を殺《や》るぞと言わんばかりに……。
危急存亡の秋《ききゅうそんぼうのとき》、新たな幕は突然切って落とされる。
シュバッと大気を斬り裂き一閃《いっせん》。銀光《ぎんびかり》が走り、畑に程近い大木が鋭い切り口からずれ始め、森との境木《さかいぎ》を越え大熊達の後方にドドンと地鳴りを響かせた。辺り一面、大きく砂塵《さじん》が巻き上がり風を伴《ともな》い吹き荒《すさ》む。
今度はなんだ―――――⁉
ヴェインとグランドは同時に目を凝らす。
大熊達は飛び上がり、後ろを振り向き後退《あとずさ》る。未だ収まらぬ砂塵の中、倒木《とうぼく》を伝《つた》い人影が姿を現した。その人間らしき者は倒木の上から周りをきょろきょろ見回すと、唐突《とうとつ》に身体に回転を与えながら空に身を投げる。
音も立てずに着地をすると、右往左往《うおうさおう》と身体を揺らし、片目の大熊に向け疾風《はやて》の如く土を蹴る。やがてその身の振りの捷《はや》さに同調し、一人、また一人と残像が現れ陽《ひ》に揺れる。大きく躍動し飛躍する頃には、大熊の頭上に剣を振り下ろす無数の残像が現れていた……
画竜点睛―――――
受け継がれるべき血脈は今この男の中に宿り始める。
二人の瞳に飛び込んで来た映像は、たった一人の者によって一瞬で地に沈む大熊の姿だった……
秘密の園《ガーデン》を出て八日目、数日には農村へ入れるであろう距離まで来た。老人から手渡された馴染みのない剣の扱いを体得する為、鍛錬をしながら農村へと向かっていた。多少、扱いにも慣れ、長物《ながもの》を振るうと云う感覚も掴めて来た。それは一筆書きの『線を引く』と云う感覚に近かった。
新しい得物《えもの》は、触れた事も無い剣だった。美しく鋭く、それでいて妖艶《ようえん》な光を纏《まと》った刀《かたな》と呼ばれるその剣は、片側にしか刃《やいば》が無く、反り返る程に三日月のような刀身がスラリと伸びた代物《しろもの》だった。時代物には名前が有るのだと云う。
老人は、曰《いわ》く言い難《がた》しの迷刀であると付け加え俺に手渡した。
【銘】妖刀鬼丸国綱《おにまるくにつな》
刃《やいば》を高速で振り抜き鋭く両断する物であり、しかしながら、正しく刃を振れなければ、斬る事が出来ないのが倭刀《わとう》であると教わった。抜刀から納刀迄の一連の動作の指南を受け、付け焼刃ではあるが、真剣にも慣れ、何とか遣いに出る前には形になった。
「まぁあれだけ木剣を振れるんじゃから真剣でも問題ないじゃろ」
老人は欠伸《あくび》をしながら耳の穴をかっぽじる。
(相変わらず…… 呑気なお人だ、後で苦労するのは俺なんだぞ、それよりも曰《いわ》く付《つ》きって悪い予感しか、しないんだが…… )
鍛錬は通常、木剣で行っており、鞘《さや》の無い木剣では抜刀術とはどんな技《わざ》なのかも皆目見当《かいもくけんとう》もつかなかったが、抜刀術とは刀で在るが故《ゆえ》の技であると云う事を、初めて刀を手にして肌で知った。
「それと、お主には外に出る前に言って置く事がある」
老人はゆっくりと落ち着いた趣《おもむき》で語り始めた。
「鞍馬流は人に使うな。いや、正しくは人に見せるなと言えば分かり易いじゃろ、見せたら最後、見た者は必ず屠《ほふ》れ。鞍馬流はの、人知れずの外法《げほう》の剣。その存在を知られてはならぬ剣なのじゃ。元は妖怪《あやかし》、物《もの》の怪《け》、魑魅魍魎《ちみもうりょう》と云う人外の、闇に住まう者を討ち絶つ為の剣術であり、人々がその力を知れば孰《いず》れ何処かで争いが起こる」
鞍馬流は一刀二剣術。【鬼法眼刀《きほうげんとう》術】と【天狗殺法《てんぐさっぽう》術】と分けられる。
鬼法眼刀術=剣刀術。剣術や徒手《としゅ》格闘術等、物理主体の剣武術。
天狗殺法術=幻刀術。幻術、呪術、妖術、神通力を用いた妖剣術。
「良いな? 使うなとは言っておらん、使い処《どころ》を穿《は》き違えるなと言っておるだけじゃ、まぁ暗殺術も会得しておるし、お主の場合、人が相手ならば無手《むて》で十分じゃろ、相手が人であるならな……」
老人は何故か不敵な笑みを浮かべ続ける。
「最後に心得じゃ、先手必勝名乗る必要無し。まぁ名を持たぬお主には丁度良いじゃろうて、お主はな、この国の騎士では無い。問答《もんどう》は相手に有益《ゆうえき》な刻限《こくげん》を与えるだけじゃ、敵と見做《みな》したら迷わず討《う》て、そして刀を抜いたら最後、慈悲《じひ》を懸《か》けるな。慈悲を垂《た》たれば仇《あだ》する事もある。刀を抜くとはそう言う事じゃ、よいな?」
そう諭《さと》すと席を立ち、神妙《しんみょう》な面持《おももち》ちで何かを持ってきた。
「さてと、諒解《りょうかい》と覚悟が出来たならこれを飲め」
老人は黒い盃をゆっくりと俺に差し出した。
「……⁉ 」
「これは師弟の盃《さかずき》じゃ、これを飲み干せばお主は完全に儂の弟子となり、儂も完全にお主の師となろう。覚えておるか? あの日、お主は儂に剣術を指南《しなん》してくれと言いおった。そして儂はお主に五つの与件《よけん》を言い渡しておったな? 」
「はい老師殿…… 承っております」
「そうか、しかしお主には未《いま》だ心に迷いが見える…… どうじゃ? 図星か? 」
「し、しかしそれは…… 」
俺は俯《うつむき》き、口籠《くちごも》る……
「して、どうする? 止めるなら今じゃぞ、儂からの与件を達成する覚悟が未だ出来ぬか? 」
「…… 」
俺はじっと一点を見詰め慮《おもんぱか》る
「ふむ、ならば一日猶予《ゆうよ》をやろう、それで心を決めてこい。心配するな、どちらに転んでもお主を責めたりはせんからの」
柔らかな表情でそう云うと老人は離れに去って行った……
俺はため息を付き、木枠で出来た窓を開け、曇天《どんてん》の鈍色《にびいろ》に落ちた空を見上げる。随分と見慣れた景色を見詰め、来たばかりの頃を振り返る。
―――思えば此処に来て何年経った?……
(どれだけの月日を老師は惜しみなく俺に与えてくれた?)
―――お前は老師に何を返せる?……
九仞《きゅうじん》の功《こう》を一簣《いっき》に虧《か》く、そんな事には出来ない。
鷹の山別れ、いよいよと飛び立つ決心をする―――
≪あんたの只の戯《たわむ》れだとばかり思っていたのに、ラシード、あんたまさか…… ≫
―――老人の頭の中で女が語る……
「言うなアナベル…… 皆《みな》まで言うな…… 」
老人は椅子に深く腰掛け天を仰いだ。
許可され手渡たされた物は、倭刀《わとう》、脇差し、野太刀《長巻》、仕込み槍、軽甲冑、外套と面頬《めんぽう》と呼ばれる物だけで、暗殺術の武器である暗器の類いは禁止され、木々の上を渡る事も、縄や火薬そして弓や馬を使う事も禁止された……
「老師殿、やはりこれらを禁ずるにも意味が有ると? 」
不安を顕《あらわ》にし、怖《お》ず怖《お》ずと尋ねる。
「なんじゃ不服か? 」
老人は眉根《まゆね》を寄《よ》せ、湯を注いで茶を淹れる。
「いえ、そんな事は…… 」
風が悪戯に木枠の窓を少し開け、柔らかな風が頬を撫でる。
「お主は何じゃ? 」
老人は不機嫌そうにお茶を差し出し、椅子に背を預ける。
「―――――⁉ 」
(どうやら老師の癇《かん》に障《さわ》ってしまったようだ)
「お主は儂の何じゃと聞いておる」
老人はじっと俺を睥睨《へいげい》する。
「で、弟子です、老師殿」
襟を正し慌てて答える……
「ならば師のいう事なれば黙って聞いておれば良い」
老人は目を閉じ両手で以《も》って茶を啜《すす》る。
「……はぁ、」
(反駁《はんばく》は軋轢《あつれき》を生むか…… )
「なに、そのうち解る」
「…… 」
月明りの水面《みなも》に映る自分を覗き込み、夜の目も寝ずに俺は自問自答していた。
この八日間そればかり考えて居た……
老人は「いづれ解る、いつかわかる」その言葉の繰り返しだった。
(本当にそれでいいのか? 本当に強く成れるのか? )
頭の中の自分が取り縋《すが》る。
答えに飢えていた、結果が欲しかった、身体で感じ得るものを。
(何故こんな俺を老師は弟子にした?何故だ…… )
エマにも未だ勝てた事は無かった。いい所引き分けしかない……
(情けない…… )
「くそっ‼ 」
一閃‼ 溢れ出る感情に任せ、闇夜に向け刃を振るう。何度も何度も無心で振るう。汗が肌を伝い刀は妖艶に月明りを返し、機を窺《うかが》えと俺を諭す。
漸《ようや》く汗が地面を染めると俺の心は少し洗われた気がした……
憂鬱な夜の瞞《まやか》しは、妖刀により払われる。闇夜に紛れ機を窺うは、己の心のみにあらず。怪しく光る眼光は直ぐ側にまで迫っていた。