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夜勤明けの空は、いつもどこか薄い。
夜と朝が決めきれずに揉み合っているようで、
そのあわいを歩くと、世界がまだこちらを見ていない気がする。
浩平は、コンビニの前で立ち止まった。
缶コーヒーの温もりが指に沁みる。
さっきまでいた老人ホームの廊下には、洗剤と汗の匂いがまだ残っていた。
——「あんたは優しいねえ」
夜中の巡回のとき、
認知症の入所者の一人、上村さんがそう言って、急に泣き出した。
小さな手が浩平の手を握って、離さなかった。
「息子がね、こんな手だったのよ」
その一言で、何かがほどけた。
別に、特別なことをしているわけじゃない。
でも、ああいう涙を見ると、
自分の中のどこかがずるずると溶けていく。
そして気づく。
自分が“まだ泣ける人間”であることに。
休憩室でそれを思い出し、少し泣いてしまった。
同僚が笑った。
「いい年して、泣くなよ」
笑いの中に悪意はなかった。
けれど、その言葉だけが心に残った。
いい年して、泣くな。
じゃあ、いつなら泣いていい?
子どものときだけ?
社会に馴染んでからは、
涙の出番は終わりなのか。
缶コーヒーを飲み干すと、
金属の味がした。
空を見上げると、
夜がやっと剥がれ落ちていくところだった。
街路樹の間からこぼれる朝の光が、
ほんの少しだけ目に沁みた。
その光のなかで、浩平はふと思った。
「いい年して、泣けるうちは、まだ人間でいられるのかもしれないな」
そして歩き出す。
手の中の空き缶が、小さく鳴った。