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Hに頼まれていた仕事はちょっとした書類の作成だったので、さほど時間もかからずに終えることができた。
この程度のことなら、Kにだってできるだろうに、どうして僕に押し付けるんだ。
大きく伸びをしたとき、事務所のドアが開く。
「Y君、調子はどうだい」
振り向いた僕に、白いもみあげの男が取って付けたような笑みを浮かべて言う。
「ちょうど終わったところですよ」
「そうか、助かった。きみは本当に有能だ」
Hは言うと、僕の肩を軽くぽんぽんと叩く。親しさを確認するように。共有しようとするように。
汚らわしい!
そう怒鳴って振り払いたいのを我慢して、僕は表情筋を操作して笑顔を作る。
「君のような有能が入ってきてくれて大助かりだよ……どうだい、コーヒーでも一緒に。いい豆をもらっていてね」
「いただきましょう」
そうこないとな。Hは相変わらずバカげた笑みをくっつけたまま言うと、事務員にコーヒーを淹れるよう指示を出す。
薄い笑み、ぺりぺりと音を立てて剥がれ落ちそうな笑み。できるものなら引きはがしてやりたいもんだ。
黒い感情を胸の中ですり潰して、僕はソファに座る。
「Y君はこんなに頑張っているというのに、まったくうちの息子はどこをほっつき歩いているんだか」
「さあ……また映画でも観に行ったのかもしれませんね」
おそらく部屋で眠っているだろうKのことを考えながら僕はこたえる。
給湯室からコーヒーメーカーのコポコポとした音が聞こえる。柔らかな香りがこちらまで漂ってくる。
ひどく安全な香りだ。すべてを保証してくれるような香り。
向かいに座ったHはもみあげを撫ぜながら窓の外を見ていたが、やがて僕の方に向き直った。
「なあ、Y君」
老人の顔から薄い笑みはもう剥がれ落ちている。
「なんでしょうか」
「これで何度目の話になるかな……つまり、ワシのいなくなった後のことなんだが」
だろうと思った。心の中でつぶやく。
こいつに僕とコーヒー片手に世間話する気などさらさらないのだ。家名の威厳を守ることに必死な、婿養子。
黙っているとHは身を乗り出して言う。
「ワシが死んだあとこの事務所は、君に任せたい。ワシはそう考えておるんじゃ」
「まだまだお元気なのに、気が早いですよ」
僕は肩をすくめてみせる。
「それに僕にはそんな大役、つとまりそうもない」
「いや、君しかいないんだ。息子は見てのとおり、到底1人でやっていけるとは思えない。誰か有能な右腕がいないと心配なのだよ」
僕はうつむき、間合いを測る。
幾度も話を持ち掛けられ、迷った末にOKを出したのだと思えるような、もっとも適切な瞬間まで黙る。
「……そこまでおっしゃるなら」
「ありがとう」
安心したよ。Hは微笑んだあと、不意にひどくせき込む。こんこんという不吉な咳の音色が事務所にこだます。
「風邪ですか?」
僕はいかにも心配したふうにたずねる。
「どうも最近、よく咳が出てなぁ」
「寒くなってきましたからね。お体を大切にしてください」
「そうやってワシを心配してくれるのは君だけだ。妻も息子も何一つ気にかけてくれん」
僕は微笑んで、運ばれてきたばかりのブラックコーヒーに口をつける。
頻繁な咳は末期症状。そうあの男は言っていたっけ。
あと少しの辛抱だ。あと少しですべてが終わる。