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駆け寄ると、彼女の体は想像以上に凄惨な状態だった。
この島を長年支配していた『魔毒の霧』───
高濃度の塩分と魔力の混合体は、皮膚呼吸を主とする人魚にとって、最悪の劇薬だったに違いない。
珊瑚のような輝きを放っていたはずの美しいピンク色の髪は、煤けたように黒ずんでいる。
深海を映したような蒼い尾びれの鱗は、魔毒に焼かれて赤黒くただれ、痛々しく剥がれ落ちていた。
「……やはり、なんて綺麗なんだ。いや、見惚れている場合じゃない。この状態はまずいぞ」
海洋オタクとしての感嘆を理性で抑え込む。
彼女の呼吸は、冬の夜の蝋燭の火よりも弱く、今にも消え入りそうだ。
放置すれば、あと数分と持たずにその鼓動は止まるだろう。
このままでは、彼女は死ぬ。
「……間に合え! 固有スキル『水質浄化(モレキュラー・フィルタリング)』。対象、人魚の体内魔毒成分の分離・排除を開始!」
俺は迷わず、砂に汚れた彼女の細い腕を掴んだ。
肌に触れた瞬間、彼女の体内を巡る汚染された魔力の奔流が、俺の脳内へダイレクトに流れ込んでくる。
ヘドロのようにドロドロとした感触。
それが、俺の精密な魔力操作によって、まるで泥水が高性能の濾過装置を通るように、一滴、また一滴と分離されていく。
同時に、俺自身の体内にある純粋な魔力を、逆流させるように彼女の血管へと流し込んでいく。
カイリとしての記憶の欠片が身体に馴染んでいるのか
これほど高度な「血液レベルの浄化」であるにもかかわらず、呪文を噛むことすらなく完璧に遂行できた。
この魔法は、単なる回復魔法ではない。
魔毒に侵された魔力を、無害な『純粋魔力』と『不純物(毒素)』に瞬時に分解し
毒素だけを体外の汗として排出させる、文字通りの『生命の再構築』だ。
「……あ、……ぁ……っ」
微かな吐息。
やがて、彼女の長い睫毛が震え、水色の瞳がゆっくりと、しかし力強く開いた。
潤んだその瞳が、霞む視界の中で真っ直ぐに俺を捉える。
まるで、地獄の底で唯一見つけた光に縋り付くかのように。
彼女の小さな指先が、震えながら俺のシャツを必死に掴んだ。
そこには人間に向けられるはずの警戒も、敵意も一切ない。
ただ、心の底から救いを求める、子供のような無垢な願いだけがあった。
「……たすけ……て……」
掠れた、しかし鈴を転がしたような澄んだ声が、俺の胸の奥底に直接響く。
前世でも今世でも、孤独に生きてきた俺の心が、その一言で強く、激しく揺さぶられた。
「安心して、ここはもう、安全だよ」
俺は彼女の体をより強く、壊れ物を扱うように慎重に、かつ優しく抱きしめた。
人魚の体温は人間より数度低い。
海洋オタクとしての知識が思い起こされる。
だが、高熱に浮かされていた彼女の体は、今はひんやりとした冷たさと
俺の魔力に反応して徐々に宿り始めた『心地よい熱』が混ざり合う、不思議な質感を持っていた。
体温が正常値に戻りつつある。彼女の命の炎が、再び燃え上がり始めた証拠だ。
「……あなた……、だれ……?」
消え入るような小さな声。俺は彼女の耳元で、努めて穏やかに、安心させるように答える。
「俺はらカイリ。……君が危険な状態だったから助けた、通りすがりの人間だよ……君は?」
「カイリ……人間、さん……?」
彼女の頬に、微かに、けれど確かな喜びの灯がともる。
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳に、もう絶望の色はない。
そこにあるのは、俺という存在に対する全幅の信頼と、微かだが熱い『何か』。
そして、その水色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
砂浜に落ちたその雫は、瞬時に硬度を持ち、宝石を凌ぐ輝きを放つ。
人魚が心から感情を揺らした時にのみ流すという、伝説の『真珠の涙』。
「わ、わたくしは、アクア……といいます。……助けて、くださって……。わたくしを、見つけてくださって……ありがとうございます……っ」
そう言って、アクアは俺の胸に深く顔を埋めた。
その小さな体は、俺の腕の中に吸い込まれるようにすっぽりと収まった。
まるでもう、ここ以外のどこへも行く気はないと、この場所こそが世界で一番安全な聖域なのだと言うように、彼女は俺の温もりを求めて強く寄り添ってきた。
(……こ、こういうときは…どうするべきなんだ…っ、とりあえず、敵意は無いようだし…この子が落ち着くまで待つか)