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「どう? 瀬戸さん、もう帰れそう?」
その声にピクリとキーボードに触れる指が震えた。
資料を作成していた優奈が眠気でぼやけている目を擦りながら声の方を振り返る。
予想どおり、奥村の姿があった。
食事をした夜から数日。普段通りの奥村に対し優奈は到底真似ができず、緊張などしていないフリをすることしかできないでいる。
「お疲れさまです。今日は直帰じゃなかったんですか?」
経営戦略室のもう一人のメンバーである澤田千春と共に優奈は顔を見合わせて、奥村に問いかける。
「うん。まだ二人帰れてないってマキさんに聞いたから寄ってみた」
「わぁ、優しい! でも大丈夫! 私はもう帰るよ絶対帰る! あの鬼上司を拾って放り投げたらソッコーで!!」
千春は琥太郎のスケジュール管理やサポートをする業務の他に経理部長もこなす、マキと同じく頼りになる先輩である。
「千春さん、忙しいのに一緒に残ってくれててすみません」
ライトブラウンのショートスタイルに、耳元にはシンプルなフープピアス。細く長さのある美しい首と小さな顔。ショートスタイルが似合う女性には憧れてしまう。
(そのうえ仕事もマキさんと並ぶ敏腕さ……神様って不公平)
「いーよ。終わらせたいこともあったし、優奈ちゃんだけじゃわかんないこと多いじゃん。まだうち来てひと月くらいでしょ」
中に人がいないこと多くてごめんね、と優奈の頭を何度か撫でて千春は席を立った。
そうしてテキパキとデスクを片付けロッカーに荷物を取りに行く。
コートを羽織りながら千春が顔だけをこちらに向けて言った。
「奥村くん、私琥太郎さん駅まで迎えに行って、下に放り投げてそのまま帰るから。優奈ちゃんももうすぐ終わると思うけど」
「ああ、はい。ありがとうございます、あとは僕一緒にいます」
デスクにドサっと重たそうなビジネスバッグを置いて千春に返した奥村が、優奈を見ていつものように穏やかな笑みを見せる。
その様子を確認したと言わんばかりに、ニカっと笑顔を見せ「んじゃ任せた」と足早に去った千春。
フロアを出てすぐに通話を始めたようで早口にまくし立てる声が聞こえてくる。
相手は恐らくマキか琥太郎なのだろう。
「さて、何が残ってる?」
気を取り直して、とでもいうように奥村は千春が先ほどまで座っていた席につく。
「……あ、すみません。明日の部長会議の資料上がってきたので高遠さん用のものをまとめています」
「そっか、これ面倒だよね」と、隣に座りパソコンの画面を覗き込む。ここには専用のデスクがなく、雅人と琥太郎を除く全員で大きなデスクを共用し、使用している。
その為、膝が触れ合ってしまう距離に奥村がいる。とても近い。
「あ、ごめんね、近すぎる?」
ソワソワとする優奈の空気を感じ取ったのか。
確信犯のような余裕さだ。
奥村が耳元で囁くように言った、その時。
「お前たちだけか?」
ドアが開く音と共に雅人の声が聞こえて、優奈は咄嗟に飛び上がるようにして立ち上がった。
「……何してるんだ、優奈」
その挙動不審な行動に眉を顰めた雅人は、名を呼んだ優奈ではなく。
眼光鋭く奥村を見据えた。
「お疲れさまです、高遠さん。早いですね」
それに気がついているのかいないのか。
奥村は気にする様子もなく、穏やかに応えた。
「ああ、早く切り上げれたからな。都合が悪かったか?」
「いえ、そんなことないですよ」
「二人でゆっくり話したいのなら、会社を出てからにしろ」
雅人の声は疲れているのか覇気がない。
深く息を吐きながらネクタイを緩める仕草には、気怠さが漂う。
しかし空気はピリピリと張り詰めていて、暖かいはずのフロアに冷たい風が吹き込んできたかのようだ。
「で? 奥村。優奈が随分慌てていたようだが、お前にも何をしてるんだと聞いた方がよかったか?」
(……ひぃ!)
背筋にピリピリ、恐怖が走る。
覇気はないが激しい怒気を感じたから。
なぜだか兄の顔ではない”邪悪な方のまーくん”の君臨を予感した優奈は慌ててその会話に割って入った。
「千春さんが琥太郎さんのお迎えに向かったので! 奥村さんが仕事見てくれてて……!」
「…………そうか」
ほんの少し合わさった視線。けれど優奈が求める優しい表情にはならなかった。
(別に、妹扱いされたいんじゃないんだけど……)
それでも、奥村と食事に行った夜から数日続くこの微妙な距離感や空気。どうすればいいのか……実はお手上げ状態だ。