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光
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sakuragi coco🌸
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ゆめ
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いつからか、気がついたときにはもう自分は普通ではないのだと自覚していた。透明な線が引かれた向こう側で楽しそうにふざけ合って笑ってる友人たちと、その線をどうしても越えることのできない俺。一般的に甘酸っぱくて青い果実のような”初恋”というものは、俺にとっては耐え難いほどに苦かった。これは神様からの悪質なプレゼント。誰も悪くない。友人も、家族も、母親も、俺も。
「……っ!……はぁ、っは」
目が覚めるといつも瞼は濡れていて、背中にはひんやりとした汗が吹き出ている。そっと左耳を撫でると冷たいピアスが指先に触れた。そうすることで徐々に心拍数は落ち着いていく。
俺は悪くない。……悪くない、はずなんだ。
◇
同級生と積極的に関わらなくなった俺はクラスで孤立していて、朝教室へやってきたとて話しかけられることは全くない。近づきすぎると自分が苦しくなるだけだから。唯一と言っていい友人は一個先輩の深澤辰哉という男で、中学は違ったものの部活が一緒でいつの間にか仲良くなっていた。彼には特別な感情は抱かないのかと問われると、答えに困る。好きになりかけたことがないとは言い切れないのだ。それでも彼の隣にはいつも美人な女の子がいて、俺の入る隙間なんてどこにもなくて。「俺たち親友だろ!」と笑いかけてくる彼に、首を振ることなんてできやしないから。
それでも未練たらたらというわけではなくて、逆に吹っ切れていた。こんなことよくあることで、俺の恋心なんて最初から叶わないと分かっているから変に期待もしていない。次から次へと恋愛対象は転がるように変わっていく。そして今は、
「岩本くんっ、おはよう」
世界で一番、叶いそうにない恋をしている。
「おはようございます」
「ふふっ、今日も素っ気ないね〜」
「……別に」
クラス中の生徒がこちらを見ていて居心地が非常に悪い。それでもこの男を邪険に扱ったり、避けたりなんかは絶対にできない。だってこの人はいつか、桜が散るように呆気なくいなくなってしまうから。それに、こんな無愛想で人相も悪いような俺なんかにいつもこうして話しかけてくれる。ちょっとは気に入ってくれてるのかな、なんて甘い毒のような勘違いをしてしまう。
この男の名は阿部亮平。一週間前に突然現れた教育実習生で、とにかく顔が良かった。甘さと男らしさの共存しているバランスの整った顔立ちは初日から女子たちに非常に人気だった。それに言動の節々が妙にあざとい。それも、狙っているのか天然なのかわからない具合に。それにも関わらず声は低くて穏やかな声色をしていて、惹かれる理由はもう十分だった。他の教員よりも歳が近いからか距離も近くて、先生というより近所のお兄ちゃんみたいな。
彼は「今日も放課後空いてる?」と言いながら首をこてんっとかしげてみせた。廊下の方からこちらを見ている女子たちがキーキーと騒ぎ出す。早くいなくなってほしい。そう願う他なかった。
「……まぁ」
「そしたらまた勉強しようね」
そんな言葉に熱を感じてしまうのは俺が思春期真っ只中なせいだろうか。それとも煽られてる? 真意なんて突き詰める気もさらさらない俺は、去っていく阿部先生の背中をそっと横目で見つめた。他の生徒と楽しそうに話をしている。くしゃりと歪む顔。しわのできる目尻。口元に手をあてる仕草。その花のような笑顔を他の人間に向けていることが腹立たしかった。ふつふつと沸き上がってくる苦みをぐっと飲み込む。
俺は頬杖をついて彼から目を背けた。窓の外は快晴ではないものの晴れ渡っていて見ているだけで気持ちがいい。吹き込んでくる柔らかな風を受けながら俺は「……ずるい」と独り言を漏らした。
他の誰も見ないで、俺だけにしてほしい。そんな黒い願いは、風とともにざわめく教室の空気に溶けて消えていった。
◇
思わず欠伸が出てしまうような数字の羅列に俺はつまらなくなって、俺は窓の外を眺めた。数週間前まで心地良い天気だったはずの空は梅雨とともにどんよりと雲をひろげていった。片頭痛もするし気分は晴れないし、梅雨なんて好きでもない。
「いーわーもーとくん。どこ見てるの」
「……わかんない」
「わからない? どこかな。一緒にやろうよ」
そっと顔を寄せてプリントを眺める阿部先生からは、煙草の匂いも香水の香りもしない。石鹸のような柔らかな柔軟剤の香りだけがする。どこまでも上品で純潔なこの人を俺が穢してはいけない。そう頭では分かっているのに、心というものは暴走を止めなかった。
部活がない日はこうして放課後に俺に勉強を教えてくれる。こんな馬鹿で物わかりの悪い俺なんかになんでこんなに親切にしてくれるんだろう。そういつも考える。考えて、都合の良い夢を見る。あなたは何を考えてるんですか。あなたは俺のこと、どう思ってるんですか。聞きたい。それなのに、聞いてしまえば終わってしまうような気がして。
「……わかんないっす」
いつまでも分からないまま、踏み出すことができない。
阿部先生はそんな俺を見て「ちょっと待ってて」と席を外した。ガタガタと音を立てて古びた校舎の扉が閉まる。俺は体内に立ち込めたガスを抜くようにふーっと息を吐き出した。そして左耳に触れる。長い髪のおかげで隠れているけれど、阿部先生は気づいているのだろうか。このヘリックスは、高一の頃ふっかに彼女がいるって知ったときのやつ。こっちの二つ空いたロブは、バイト先の大学生にヤるだけヤッて捨てられたときのやつと、付き合ってた社会人の男に振られたときの。軟骨に穴を開けるのは想像していた以上に痛かった。それでも、心に抱えた辛さを発散する方法を不器用で幼稚な俺はこれ以外に知らなかったのだ。手首を切れば母親が悲しむだろうし、オーバードーズなんて興味もなかった。死にたいわけではなかった。ただ、やるせない思いが暴走して、自分を傷つけたい衝動に駆られていただけ。
再びガタガタという音がして俺は急いでその左耳を髪の毛で隠した。そのはずなのに阿部先生は「あれ?」と優しく微笑んで、扉をしっかりと閉めてから俺の方へとやってくる。
「ピアス、開けてるの?」
「……開けてないです」
「ふーん。じゃあ見せてよ」
「……やです」
そう言って拗ねた子どものようにそっぽを向くと、阿部先生はそれ以上追求してこなかった。引き際を分かってるその落ち着きに、この人は俺よりも先を行っているんだと、俺達は大人と子供なんだと思い知らされた。
窓を向くことにすら飽きてしまって、俺は仕方なくプリントをぼんやりと眺めた。すると、目線の先に突然現れた謎の箱。「なにこれ」と思い顔を上げると、阿部先生は「しーっ」と人差し指を唇に寄せていた。ダークブラウンの箱に付けられた黄色のリボンを丁寧にほどいていく。すると蓋を開けて現れたのは甘い上品な香りと整列した八つのチョコレート。可愛くてお洒落な見た目からして、多分、高級なやつ。
俺は思わず「え……?」と間抜けな声を漏らした。だって意味がわからなかった。こういうのは恋人とかに特別な日にあげるものじゃないの? なんで、なんでそれを、俺なんかに。
「この間、誕生日だったんでしょ? 俺がここに来る前だったからちょっと遅れちゃったけど」
「なんで、俺の誕生日……っていうか、なんでチョコ」
頭は混乱に陥っていて正常に働かない。「なんで」ばっかりの俺に阿部先生は吹き出すように笑って、そして、俺の髪をふわふわと撫でた。
「教室の後ろに、自己紹介カードあったでしょ」
「……あ」
新学期早々、担任の先生に書かされた自己紹介カード。こんなの中学生まででいいだろとか、読むやついるのか? とか考えながら適当に書き上げて提出したやつ。まさか阿部先生が俺のを読んでくれていただなんて。まぁ、クラス全員のを見ているのだろうけれど。たしかそこに誕生日を記載する欄も好きな物を書く欄も存在した。だからって、なんで俺なんかの誕生日にわざわざこんなものまで用意して、祝ってくれるの?
そんな疑問は言葉にせずとも瞳で伝わったらしく、阿部先生は静かに頷いた。そうして再び俺を見つめたその顔は、どこか切なかった。
「これで最後なんだ」
「……え?」
「君に、岩本くんに勉強を教えられるの。今日で最後」
頭が真っ白になった。そりゃあそうだ、この人は正式なこの学校の先生なんかではなくてただの教育実習生で、数週間経てばもとの大学へと帰っていくのだから。でも、おかしい。まだ数日あるはずだ。最初に担任が言っていた期日を、俺はその日その場でスマホにメモした。だから間違いないはずなのに。
「……どうして」
俺の口から漏れ出したその声はあまりに頼りなくて、捨てられた猫のように弱々しかった。俺のせいなのかと思った。俺が悪い子だから、阿部先生までいなくなってしまうのかと怖くなったのだ。
こうして上手く行かないことがあると「どうして俺はゲイなんだ」といつも悔やむ。ノンケの恋愛が全てうまくいくわけではないし、ノンケなら必ずしも幸せになれるわけでもないと、頭ではわかっているのに。
阿部先生は泣きそうな俺の背中を優しく撫でてくれた。今はその手のひらの温かさが、どうしようもなく痛かった。
「あと数日で、俺は大学に戻るでしょ? そのための準備が色々とあってね。岩本くんに時間を割けなくなっちゃったんだ。ごめんね」
「……っ俺のこと、きらいになったわけじゃないですか」
頭が上手く回らなくて、俺は子どものように思ったことをそのまま口に出してしまった。あとになって急いで口を噤んだものの、出てしまった言葉をなかったことにはできない。心のなかで盛大な後悔をしていると、阿部先生はふっと笑って、ひだまりのような笑顔を俺だけに向けてくれた。
「そんなわけないよ。むしろ俺は岩本くんのおかげで成長できたから。本当にありがと」
気がついた頃には、しょっぱい雫が唇の端へと伝っていた。視界が滲んで阿部先生の顔が上手く見えない。このまま消えてしまうのではないかと恐ろしくなって、俺は咄嗟に先生に手を伸ばした。するとその手を振り払ったりなどせず、温かな手のひらで包みこんでくれた。そして、一度ぎゅっと俺の手を両手で握ってからゆっくりと離した。
涙を落ち着かせようと懸命になっていたその時、突然唇に触れたのは柔らかいような硬いような感触。驚くままに口を少し開くと、球体の甘いものが口内へと溶け込んできた。今までいろんなチョコを食べてきたし、これからもたくさん食べるだろうけど、後にも先にもこれが一番美味しい。甘くて、苦くて、しょっぱくて。
「……おいひいです」
「ふふっ、それはよかった」
部活終了のチャイムが校内に鳴り響く。チョコレートの箱を丁寧に鞄にしまって、席を立つ。名残惜しさを胸に「また明日、阿部先生」と声をかけると、先生は少し何かを考えるようにしてから「さよなら。また明日ね」と微笑んでくれた。その笑顔は、ビターチョコのようにどこか苦かった。