さとると美玲は、大雨が降る中、夜の図書館に忍び込み、一番奥の「世界文学コーナー」にある本棚のところまで来た。
「ここにあるんだよ」
さとるは両手でしっかりと本棚の端を握り、左側へ引く。するとゆっくりと本棚が動き、暗闇が口を開いた。
「美玲、先に入って」
美玲は携帯電話のライトを頼りに、暗闇の中に入る。
「これ、電気かな」
「ん?」
あとから入ってきたさとるは美玲が指さすのを見た。
「あ、多分これが部屋のライトだね。つけてみよう」
ライトがパッと点灯すると、なにもない、真っ白な空間が現れた。4m四方の立方体を部屋にしたような。
「ここ、ほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫。外にも音は漏れないし、誰にも気づかれない」
さとるは引き手のついた本棚を閉めた。
「そっか……そうだよね」
美玲はふふっと笑って、さとるの手を握った。
さとるは美玲の身体を抱き寄せる。息遣いを荒くしながらふたりは口吻を交わした。
それから事が済むまでの時間はそう長くなかった。
裸のまま抱き合った二人は幸せそうな顔でお互いを見つめた。
そのときだった。
コツ……コツ……と、革靴を鳴らして歩くような音が二人の耳に届いた。
二人は冷や水をかけられたように一気に恍惚から目覚め、慌てて服を着た。
「ここの職員が……残ってたのかも」
「さとる、どうしよう?」
「逃げ切れるときに逃げよう。おれが先に出るから」
さとるは引き手の付いた本棚をまたスライドさせる。先ほどよりずいぶん重そうだったが、なんとか少しこじ開けることができた。
右腕を少し空いた隙間に差し入れ、開こうとしたときだった。本棚が急に閉まったのだった。さとるの右腕が本棚に挟まってしまった。引き抜こうとしても引き抜けない。とんでもない力で腕が押し付けられている。
「さとる!」
美玲はさとるの横まで来ると、引き手を力の限り引っ張った。だがそれはびくともしない。
そうしているうちに圧力は増し、さとるの腕は無情にも千切れてしまった。
右腕の肘から先が失われて、どくどくと血が流れ出している。
「さとる! さとる!」
美玲は涙を流しながらさとるの肩を揺さぶる。さとるは真っ青な顔をして唇を震わせて、たった一言、「救急車を呼んで……」とだけ言った。
美玲は携帯電話を取り出し、119番にかけようとした。だが断念せざるを得なかった。画面上部に「圏外」と書かれていたのだ。
*
——いつもと雰囲気が違う。
警備員の御影はいつも通り、施錠された夜の図書館をうろうろしながら、与えられた業務をこなしていた。が、振り払えない違和感を感じていた。
なにかが自分を観察しているような気がしたのだ。玄関口に来ると、その予感が一層強く感ぜられた。
——いや、そんなはずはない。図書館は施錠されている。盗難事件があってセキリュティを強化したから、誰もいるはずがないんだ。
急に、外から強い雨音が聞こえた。雷まで鳴り出した。青白い閃光が一瞬だけ景色を浮かび上がらせ、激しい雷鳴を轟かせる。
もういちど、一瞬の光があった。その瞬間、御影には人影が見えた。
窓ガラスに、白い服を着た人影が写ったからだった。思わず振り返る御影。雷の光が屋内を照らす。確かに、図書館のカウンターに人の姿がある。
「おい……」
御影はおそるおそる、右手に持った懐中電灯をそれに向けた。
それは、白い服を着た少女だった。伸びた髪で表情は窺い知れないが、右手でゆっくり手招きする。
「こ、こんなところでなにをしてるんだ」
御影は声を震わせながら、少女に近づいていく。すると少女は、少しずつ暗闇の中へと後ずさりをする。
少女に釣られて、御影はゆっくりと図書館の奥へと進んでいく。
*
さとるは数分のうちに、出血多量で完全に事切れてしまった。
なんでこんなことをしたんだろう、したいって言ったわたしがいけなかったんだろうか、などと、美玲は自分を責め立てた。
気分が悪くなって、部屋の片隅で嘔吐した。救助されたとしてもさとるが帰ってくるわけではない。わたしにはひどい罰が待っているだろう。そう考えてひたすら胃液を吐き、泣いた。
そのうち疲れ果て、眠くなってきた。
携帯電話で時刻を確認すると、もう夜も遅かった。
少し休みたいけれどこんな状況じゃあ——。と思ってからすぐ、美玲は眠りに落ちた。
目を覚ますとまた白い部屋だった。
さとるの流した血を見て、美玲はまた泣いた。
腹部が、なんとなく痛い。胃液を吐きすぎたのだ、と思いながら腹をみると、さらに奇妙なことが起こっていたのだ。
それは、大きく膨らんだ風船のような腹だった。
*
まだ時折強い光が断続的にフラッシュし続ける図書館内を、御影は少女に導かれて進んでいた。
少女は奥へ奥へと進み続ける。御影はそれを照らしながら、恐怖と好奇心が入り混じった妙な感情にとらわれていた。
少女がたどりついたのは、入り口から最も遠い場所にある「世界文学コーナー」だった。
そこにくると少女は手招きをやめて、ゆっくり指さす。その本棚を。
「ひらいて……」
掠れた声で、御影にそう告げる。開く? この本を? それとも棚を?
そういえば、昔こんな噂を聞いたことがあった。
——図書館のいちばん奥にある本棚をずらすと、異次元空間につながる隠し部屋に入ることができる。そういうふうに設計されている。
「まさか」
——でも、そんな話を鵜呑みにするわけでもないし、業務外の何かをするわけにもいかない。だが、いまの状況がまともじゃないことは分かっている。この奥に、何かがあるはずだ。
彼は、引き寄せられるように、その選択肢をとった。
本棚に手を掛ける。
*
刻一刻と、どんどん膨張し続ける腹部に、美玲は恐怖を隠し切れないでいた。
「いやっ! いやー! 誰か! 誰か助けて!」
激しい痛みが全身を間断なく突き抜けていく。
ついに皮膚は膨張に耐えうる限界まで到達して、臍のあたりで張り裂けた。
その中から、ぬらぬらと光る一本の手が飛び出した。続いてもう一本の手がその横から飛び出す。両手はむんずと美玲の肉体を押さえつけ、本体を胎内から出現させた。
真っ赤な血糊にコーティングされた赤子は、産声も上げずに、自ら立ち上がり、白目を剥いて死んだ美玲を見下ろした。
*
御影が手を本棚の端に手をかけると、妙に簡単な力でそれが開いた。
口を開いた暗闇の中を、まだ少女は指差している。
御影はスマートフォンを取り出すと、ライトで室内を照らしてみた。
黒い影が見えた。強烈な異臭がする。部屋の明かりをつけるスイッチが設られているので、それをオンにする。
部屋が強い光で照射された。御影は一瞬目を細める。
だがその悪臭の正体に気づくと、「うわっ!」と悲鳴をあげて、部屋から出た。
すぐさまスマートフォンで110番に電話をかける。ふと少女を見ると、部屋から漏れる光を浴びて笑顔を御影に向けていた。
そして彼女は一言、か弱い声でこう言った。
「おかあさん、だよ」
***
「つまり、その腐乱死体が、保護された女の子の母親だと?」
「ええ、DNA鑑定の結果はそうでした」
「へっ。馬鹿言うんじゃないよ。あの状態で何ヶ月も生きられると思うか?」
「でも、そうなら、誰かまだいるのかもしれませんね。あの中に」
「それも馬鹿馬鹿しい話だなあ」
「女の子に聞き取り調査をできる状態になればな」
ふたりが談話している捜査本部に、若い警官が駆けつけてきた。
「検死で、新しい事実が判明しました!」
「まだ何かあったのか?」
「死体の死亡推定時期は——15年前です!」
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