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「あぁ、名前。名前……」
彼はそう繰り返した後、こちらを見て笑った。
「それが困ったことに、忘れちゃったんだ。名前だけじゃなくて、住んでた所とか、通ってた学校とか。友達や家族の名前すら忘れちゃった。で思ったんだけど、多分ここにずっといると記憶がなくなっちゃうんだよ」
手に持っていたフォークが下に転がり落ちる。
清心は顔面蒼白で、少年の肩を掴んだ。
「記憶がなくなる!? って、冗談だろ!? むりむり、やっぱ今すぐ帰らせてくれ!!」
「わわ、落ち着いて! 大丈夫だよ、俺みたいに何年単位でここにいなきゃそこまで忘れないから。それに向こうに帰れば記憶も戻ると思う。問題はここにいる間だけで。お兄さん自分の住所とか、大事なパスワードとか、昨日の昼ごはんとか。……言えないでしょ」
「あ……言えない」
これは衝撃的だった。
親や兄弟も、名前は思い出せても顔が思い出せない。逆も然り。具体的な情報を手繰り寄せようとすればするほど記憶の糸が絡まり、反転する。
「時間も止まってるからね。でも時計持ってるでしょ? 一時間や二時間内ならここに居ても多分大したことないよ」
少年は食べ終わったケーキの紙皿をまとめ、手を合わせた。そして物思いに上を向く。
「ね、俺の名前なんだっけなぁ……でも、どうでもいいと思ったからここにずっといるんだよね。思い出せなくても、別にいいや」
「だけど名前がないのは呼びづらいよ。そうだなぁ……じゃ、俺が今思い出せる唯一の名前で。白露《はくろ》ってどう? 昔飼ってた真っ白な雑種犬の名前なんだけど」
「へえ……いいよ。何もないより良いもんね。じゃあお兄さんの名前を教えてよ!」
不思議そうに首を傾げる少年……白露に向き合い、フルネームを言おうとした。
しかし早くも苗字が出てこない。だから。
「……清心」
「おぉ。清心さん。ながいなぁ」
「いいよ、呼び捨てで」
笑って返すと、彼は嬉しそうに笑って抱きついてきた。
「いいの? ……じゃあ、清心。綺麗な名前だね!」
胸がちょっとだけ痛んだ。綺麗な名前だと褒められたことが以前もある。それはいつ、誰に言われたのか。思い出せずもどかしい。
「俺の名前呼んで。忘れないようにさ……清心が帰った後も覚えてられるように、たくさん呼んで」
「あぁ、いいよ。……白露」
そっと、細い肩を抱き締める。
これが純白の少年、白露との出会いだった。
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