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静まり返った部屋。菜月は頬についた生クリームを手で拭った。
数分前、冷蔵庫を開けた賢治は顔色を変えた。湊が差し入れたショートケーキを見つけた賢治は激昂こうし、それを掴むと床に激しく叩きつけていた。生クリームが辺り一面に飛び散り、菜月の顔を汚した。 「湊に餌付けされてるのか!」 「そんな言い方ないでしょう!」 「煩うるさい!その顔はなんだ!文句があるのか!言ってみろ!」そう、捲し立てられた。
「賢治さんだ…てっ!」
菜月は、賢治が不倫していることを責めそうになった。駄目だ、不倫の事は今はまだ口にしてはいけない。決定的な証拠がなければ 湊 が言った”復讐”をする事が出来ない。何かを言いかけて突然黙り込んだ菜月を前に賢治は苛立ちを隠せずテレビのリモコンを勢いよく壁に投げつけた。
「キャッ!」
蓋が外れ転がり出た乾電池、菜月はキッチンに座り込んでただただ震えた。
「今度 湊 を部屋に入れたらただじゃ置かないぞ!」
「賢治さん!どうしちゃったの!」
「どうもこうもお前が約束を守らないからだ!分かったか!」
賢治は車の鍵を手に玄関の扉を勢いよく閉めた。菜月は 湊 との穏やかだった時間を踏み荒らされた悲しさと、自身の不倫という愚かな行為を省かえりみる気など更々さらさらなく、妻に暴言を吐き暴力を振う賢治の心ない仕打ちに涙した。
「…っ」
床に散らばった生クリームを拭き取りローテーブルを元の位置に戻した。嗚咽を漏らしながら乾電池を拾いリモコンに収める。雑然としたリビングを片付けていると菜月の中に沸々ふつふつと怒りが込み上げて来た。
(どうして私が怒鳴られなきゃならないの!?)
頬の生クリームを手で拭った菜月は賢治の寝室のドアを開けた。鼻につく男性臭はもう受け入れ難いものへと変化していた。その手はクローゼットに伸び、白檀の匂いが染み付いたスーツを手に取ると大きく振りかぶってベッドへと投げ付けた。
(これも、これも、これも臭い!賢治さんが臭い!)
そして白いワイシャツをハンガーから引き剥がし、裁縫箱を取り出した。菜月はワイシャツを力任せに握りしめるとリビングの床に叩きつけた。リビングに広げたワイシャツを足で踏みつけ、恨みを込めて踏み躙にじった。
(如月倫子のにおいが臭い!)
おもむろに握ったハサミを凝視する。刃先の尖ったハサミを手にした菜月の目の色は変わっていた。そして袖を左、右と切り落とし、身頃を引き裂いた。
(許さない、私を傷付けた事は絶対に忘れない!絶対に許さない!)
菜月はこれ程までの怒りを感じた事はなかった。原型を留とどめないワイシャツをゴミ箱に捨て冷ややかな目で見下ろす。愛情は憎しみへと変わり菜月を突き動かした。
(…でもしばらくは賢治さんにバレないように、大人しくしなきゃ)
怒り狂う賢治を欺き虎視眈々とその時を待つ。いつの日か不倫に溺れる二人に刃を振り下ろす時が必ずやって来る。それまで菜月は暴力暴言に怯える従順な妻を演じる事にした。
(私には 湊 がいる)
湊 の存在が菜月の希望だった。