ふっと意識を取り戻して瞼を開くと、僕の腕の中でまだルスが眠っていた。掛け布団の上でゴロンッと横なっていた状態だったから、きっと少し寒かったのだろう。温もりを求めて自ら進んで体を引っ付けてきた様な体勢だ。仮眠開始時に腕枕をしてやってはいたが、ルスの頭は僕の二の腕にまで達していて、彼女の獣耳が顔に当たってちょっとくすぐったい。抱き合っているに近い体勢でもまだ少し寒いのか、もふっとしたアイスブルー色の大きな尻尾を自分達の上に掛けるみたいにしている。
(あー…… )
かわいいな、このクソが。
好意的な感情で心が動かされるこの感覚が心底気持ち悪い。なのに自分からこの体勢を変える気にはどうしてもなれず、彼女の温かな後頭部に自ら顔を寄せた。
窓から差し込んでくる陽の光で頭部が温まっているからか、ルスの髪と小さな翻訳石を埋め込まれた獣耳はおひさまみたいな匂いがする。部屋で寛ぐだけなら充分な日差しだが、掛布も掛けずに眠るには少し寒いという半端な室温であった事に感謝したくなって、また胸の中にイラッとした感情を抱いた。
僕が僕じゃなくなる様な、変な気分だ。
明らかにこれは、今までの契約者達とは全然違うタイプに取り憑いた弊害だ。僕は肉体を持たない“意識”だけの存在だから、取り憑いた相手の性質に本質が引っ張られやすいのだろう。資質も頭ん中も心さえも、全てが悪意の塊といった、自分と似た性質の者にばかり取り憑いてきたから今まではそれでも一切問題は無かったが、根っからの善人であるルスが相手では、今回は自滅するまで堕とし切るまでには時間制限があると踏んだ方が良さそうだ。
(完全に、僕の本質が彼女の色に染まる前に、どうにかしないと)
現状を把握しようとしているうちに、段々『ルス』と言う名の毒でも煽った様な気分になってきた。コレはかなりの猛毒だ。侵食され切る前に彼女を堕落させられる事が出来ればいいが…… 。どう足掻いたって堕落させるのが無理そうなら、いっそ早めに見切りを付けて契約を切ろう。
——珍しく少し弱気になっていると、「…… んっ」と小さな声をこぼしながらルスが身動いだ。まだ眠気のせいで重たそうな瞼をうっすらと開けて状況を確認しようとしている。
「起きたか」
「あ、おはよう…… 」
少し掠れた声でそう言って、ルスが体をゆっくり起こす。彼女の部屋に置かれた小さな時計に目をやると、ルスは「流石にちょっと寝過ぎたね」と言って苦笑いを浮かべた。ショートボブスタイルの髪には少しクセがついていて、あらぬ方向に跳ねた髪がちょっと可愛い。
小さな置き時計は十一時半を指している。確かに今から市場の露店を見て回って、食材や日用品を買い足し、昼ご飯の用意をするにはちょっと時間的に厳しそうだ。
契約印の定着行為のせいで疲れさせてしまい、当初の想定よりも多く寝過ぎた。だが、その事で僕に対して苦手意識を抱いている感じは無く、のそのそとルスがベッドから出て立ち上がる。
「お昼は、ちょっと贅沢して外で食べちゃおうか」
少し頬を赤くして、ルスがにへらっとした笑顔をこちらに向けてくる。
「あぁ、そうだな。昨日のアンタはすごく頑張ったから、一日一杯、贅沢にいくか」と言いながら僕も上半身を起こしてルスの側に這い寄ると、少しだけ彼女の体がピクリと跳ねた。そっと視線だけを向けると頬が赤くなっていてソワソワとしている。この反応から察するに、さっきの愛撫を『無かった事』にする程割り切れるタイプではない様だ。
(——よしっ!)
頭の中だけでガッツポーズをとる。手を繋いでも、お姫様抱っこや添い寝にすら動揺しなかったルスの心を揺さぶる事が出来てちょっと嬉しい。
「じゃあ、先に大家さんに今月分の家賃を払っていってもいい?」
「あぁ、そうだな。そのついでに、今後は僕が一緒に住む事も報告した方が良いな」
「…… 家賃、上がったりするかな」
「それは無い。別にこの部屋は単身者向けって訳でも無いんだし、僕が同居する事になっても規約違反にはならないはずだ」
「よ、良かったぁ」とルスが胸を撫で下ろす。貧乏生活に慣れ過ぎたのか、不正行為による中抜きの心配が無くなったおかげでこの先はきちんと収入を得られる目処が立っているのに、その事にまでは頭が回っていないみたいだ。
「それに僕だってちゃんと稼ぐから、金の心配はもうしなくていいぞ。何だったらいくらでも…… 貯金が、あるから心配するな」
足りない分はいくらでも何処かからこっそり貰えば済む話だとは、真面目なコイツには言わないでおこう。
部屋の掃除をしながら遊んでやった効果は抜群だったらしく、義弟となったリアンが僕の首周りに巻き付いている。ルスの認識では随分と愛らしいボディだったが、実際にはスラっとした細身なせいで、成金趣味のオッサンが毛皮の襟巻きをしている様な見た目になっている事が難点だ。本音としては今すぐにでもリアンの首根っこをすかさず掴んで引っぺがしてやりたい所だが、今はチビでもコイツは“フェンリル”だ。成人した暁には漏れなく災害級の巨狼になるってわかっているのに、それをやる程僕も馬鹿ではない。断然味方につけて破壊の楽しさを叩き込む方が良いに決まっているので、今は好きにさせる事にする。弟が楽しそうにしているとルスの笑顔も増える気がするので、壊落させる為にもリアンの鼻先や頭を積極的に撫でてやった。
「あ、でも今って丁度忙しい時間か…… 」
ルスとリアンが住んでいるこの賃貸住宅の大家の住居兼飲食店の方へ足を向けて、今更な事をルスが気にし始めた。同じ敷地内にある他の部屋の扉もポツポツと開いて人が出て来る。コの字型に建てられた建築群の一番奥まった箇所にある二階建ての建物の、一階部分の方へ次々に人が吸い込まれていく。正面の少し大きな扉が開閉されるたびに何やら美味しそうな匂いが漂い、腹を空かせたであろうリアンがクンクンッとその匂いを嗅いでポタリと涎を垂らした。…… 僕の、シャツに。
(子供のする事だ、怒るなっ!)
そもそも何処で売っていた物かも知らんシャツだからどうでもいいだろうと自分に言い聞かせる。
「なぁ、僕達もあの店で昼を食べたらいいんじゃないか?そのうち大家に声を掛けるタイミングもあるだろ」
「あ、そっか。それいいかも…… 」
そうは言いつつも、ルスには節約生活が身に染みているからか、同意はしたがまだ決心がついていない声色だ。
「リアンも腹減ったみたいだしな」
「わうっ!」
僕の言葉に同意するみたいにリアンが元気に声を上げる。リアンが唯一の家族だったからか、彼女は弟の要望には相当弱いみたいだ。弟まで同意したとあっては、まだ少し煮え切らない反応をしながらも、最終的には大家の営む飲食店で昼ご飯を食べる事となった。
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