コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
日本、東京都西多摩市――四月中旬。
住宅街から少し離れた山奥から黄昏の曇り空を黒い煙が覆い長夜へと導いている。
背後で弱まる気配のないバチバチと激しい音を立てる火の手と耳障りな消防車のサイレンが敷地の林を赤く染め上げ陽炎が揺らぎ、満開だった敷地の桜の木が萎れて散ってゆく。
微かに聞こえる入相の鐘でまだ日が暮れていないことを知る。
放水の細かな雨がその場にいる人達をまるでなだめているかのように滴った。
積み重なっていた思い出、もう積み重なることのない思い出の残痕が次々に黒い煙となって消えてゆくことにも目もくれず、その大きな瞳は地べたに這いつくばって意識を失った男を鋭い目つきで捉え、目の前の憎悪に目を光らせ手に持っていた拳銃を男に突き付けた。
【01】「整備士」×「RX-7」
家族構成、父の宮下修造、元CAの日本人の母、そして娘の私。父は『機内で一目ぼれした』と鼻の下を伸ばしながら話していた。
仕事の影響でよくイギリスと日本を行き来する為、空港関係者の人達は『いつもすごい荷物を持って帰って来る人』と認知されていたらしいが、実際父は空港関係者は当時同級生だった知人のパイロットとCA母のことしか覚えてないと言う。聞いてもないのに何十回も聞かされるものだから気づけば自然と覚えてしまった。
父の一家は代々江戸時代から受け継がれる人力車専用の整備施設だったと、幼い頃古びたモノクロの写真を見せながら母はそう私に教えてくれた。
父は工業高校を卒業した後すぐにイギリスへと留学、知的で社交的で日本人の割に長身なこともあってか、父にとってこの道が大きく華を咲かせることになった。人脈、知識、技術、経験、実績。父のおかげで、時代の流れに追い付けず衰え始めていたうちの整備施設は十分すぎる成長を成し遂げた。
自転車にバイク、自動車はもちろん一般の整備施設では扱えないような外車や高級車のメンテナンスに修理、勿論海外製のバイクやスポーツカー、競技用の自転車だって取り扱える数少ない施設でもあり、国内では入手困難な部品や海外でしか流通がないワックスや塗装がここでは入手が可能で、指定の製品が欲しいと希望があれば代わりに買い付ける。と言っても私自身が買い付けに行っているわけではなく、海外にいる友人や父の知人を通して頼み協力してもらっている。もちろん対価も払っているしお互いにwin-winの関係だ。
その代わり購入者への料金は輸送費もあってそれなりに跳ね上がるが「ロマンだ」「恋人だ」「相棒だ」とか言ってバッサリと札束を切り出してくる人が大半。今やお偉いさんやお金持ちにコレクターやマニアの人御用達の整備施設と言っても過言ではない。風の噂ではそう通っているらしい。
お金では決して買うことの出来ない〝繋がり〟という方法を残してくれた父と母のおかげで、私はなんとかここを引き継ぐことが出来た。約一年間の突然の休業から営業の再開、父が記録していたお客さんの名簿とデータを引っ張り出しては片っ端から謝罪と営業の電話を寝る暇を惜しんで繰り返した。
十八歳の時、父と母は結婚記念の旅行から帰る途中、高速道路上の交通事故で亡くなった。高校卒業後、私がすぐに警察学校に入学した直後のことだった。
授業中に突然教官に呼び出されそう知らされた。詳しく言えば交通事故によって車のガソリンに火が引火したのが原因の焼死だと言っていた。教官がすぐに車を出して搬送された病院へ送ると言ってくれたが、私は静かに首を横に振った。
あの日のことは、嫌でも思い出してしまう。一ミリたりとも忘れた日なんてなかった。もう二度と使うこともない余分な二人分の食器や四人掛けのダイニングテーブルに衣服、期限切れのパスポート、なにもかもすべてが捨てれぬままいつまでも眠っている。
入学式は二人とも私の隣にいたのに、もうこの世にすらいないなんて――夢でも見ているようだった。
そもそも江戸時代から代々受け継がれた一家の整備施設は父の代で終わりになるはずだった。
父は跡継ぎにこだわることはなく、俺は好きやってるだけだから気にするな、お前がなりたいものになればいいと言ってくれた。
中学二年生の頃、警察官になると言った時の父と母の顔を今でも覚えている。すごく嬉しそうな顔で『頑張れ』と応援してくれたあの笑顔が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
教官から落ち着くまで休めと言い渡された長期休み、私はお手洗いと食堂へ行く以外は寮にこもった。
心のどこか大切にしまっておいた部分を無理やりえぐり出され捨てられて、埋めるものもなくぽっかりと開いたまま。少しでも考え込んだら、あの時のいろんな感情が溢れて止まらなくなる。そんな状態がずっと続いた。
それでも、私の警察官になると言う思いだけはけして折れなかった。退学なんて選択なんかこれっぽっちもなく、日が経てば経つにつれてこんなところでへばっている暇なんてないと気づかされた。
私はあの時決めたんだ。私には、まだ守らなきゃいけないものが残っている。なんなら、どうせなら、いっそのこと本気でやってやると、そう決めた。
知らせを受けて三日後、教官に通常通り授業を受けさせてくださいと伝えると諸々の手続きを済ませ一週間後にはいつも通り復帰した。
身内が亡くなって休暇を取ていたと私の噂を聞きつけた同期や教官達もわざわざ私の所まで出向いて励ましてくれた。皆自分なりに私を励まそうとお菓子をくれたり自分の黒歴史を暴露してくれたりして私を笑かした。特に後ろの席だった同期の松田くんは『早まって宮下も死ぬんじゃねェぞ』とか『気分悪くなったらすぐ言えよ』とか、休憩時間に席を外す時も『ひとりで出歩いて大丈夫かよ』とか人一倍心配されて最初はありがたく思ったけど五ヶ月くらい経ってもこんな調子だからちょっとさすがにうざくなったのを覚えている。
そして私は宣言通り成績はオールA、教官からの評判も良く成績二位だった同じ同期の伊達くんを抜いた。
それなのに、私は一度も首席になることはなかった。玄関前に張り出された成績表は常に上から二番目。首席は常に同期だった当時私より四つ上の〝降谷零〟と言う男が陣取っていた。降谷くんがいなかったら、私は確実に主席を取れたはず。悔しいが彼の実力はその通りだった。
見かけ上の順位であって、実質私は降谷くんと肩を並べることすら出来なかった。原因は、私の実力不足でもなんでもない。彼は歴代の生徒達の中でもずば抜けた異才だと教官達が話していた。そんなの、私に越えれるはずがない。この時期に入学した私の運が悪すぎた。
あの時は『あいつさえいなければ』と、随分腹が立ったけど今はもういい大人、そんな子供じみた感情はとっくにない。ああ、そんな時期もあったな~という今やいい思い出。
十九歳、私は十ヶ月間の警察学校での寮生活を終え卒業したものの警察官にはならず、実家へ帰り継ぐ予定ではなかった父の後を継いでから約五年の月日が流れた。まだ五年、もう五年。早いようで短い。
引継ぎ引き継がれ、そして時を得て現代の二十一世紀になった今、仕事のほとんどは自転車やバイクに自動車、海外部品や製品の輸入に修理、廃盤部品の相談、もっと言えばセキュリティシステムや設備管理その他諸々、時には遊園地や航空会社に鉄道会社までもがわざわざ父の整備施設が再開したと風の噂を聞きつけて電話を寄こす。
親と時代の変化はこの世で一番恐ろしいとつくづく実感する。
今はほとんど新規で訪れる人達は少なく、企業や個人のリピーターの方からの紹介された方が多い。おかげでありがたいことに生計は成り立っているし生活は苦しくない。むしろ余裕があるくらいだ。
はぁ…と、ダイニングテーブルに突っ伏しながらあからさまなため息を吐きだす。するポケットに入れてあったガラケーに着信が入り震え出す。私はそれを手早く手に取って画面を開いて耳に押し当てた。
「はい、宮下です。あ、もう庭に? いえいえ構いませんよ、すぐに向かいますね」
電話の相手は今日朝十一時から予約していたいつも利用してくれるリピーターの使用人からだった。
早めについてしまったと言う連絡に私は臨機応変に対応し、薄暗い玄関先へ向かうと靴箱の上に置いてある腰道具と皮手袋を片手に持ち、安全靴のブーツに足を手早く通してここらにしては立派な洋館、それに見合わない静かで冷たい空気を背に私は自宅を出た。
小刻みに駆けながら器用に腰道具と皮手袋を身に付けながら家を出てすぐ隣のガレージへ向かう。駆けるたびに腰道具がカチャンカチンとまばらに音を立てた。
ガレージ付近の敷地の庭にはすでに立派な黒のリムジンが止まっていた。駆け寄ってきた私に気づき運転席から出てきたのは、白髪交じりの使用人の執事さん。
「お世話になっております宮下様」
「こちらこそ、メンテナンスですよね。今シャッター開けるので」
七年前、父がリフォームした頑丈な鉄筋コンクリートで覆われた下はガレージ、上はモノ置きと作業室の一般的には珍しい二階建てのガレージ。腰道具のポケットから小さなリモコンを取り出し“open”のボタンを押すとねずみ色のシャッターが静かに上がっていく。
「そういえば、珍しいですね。勝典さんがいらっしゃらないなんて」
「ええ、今日は一日鈴木様主催のパーティーに出席予定ですので、朝からそのご準備で」
それを聞いて「なるほど」と、笑いが漏れる。毎回メンテナンスの日には使用人も連れず自ら運転してやって来る方だから毎日暇なのかと思っていたけど、お金持ちの息子も案外生活は楽ではなさそうだ。
車を誘導するべくガレージの中へと先回りし車の後へ回り合図を出せばリムジンがバックで下がってくる。
定位置になったところでストップの合図をすれば執事さんが運転席を離れる準備をしている間にいつも通りボンネットを開け小型の懐中電灯で照らしながら軽く中を確認していると、再びポケットに入れていたガラケーから着信音が鳴った。
口に懐中電灯を咥え不備がないか目を通しながら開いている片手でポケットをまさぐりガラケーを手に取ると、先ほどと同様に手馴れた手つきで画面を開きそのまま耳と肩の間に挟むと咥えていた懐中電灯を口から片手に持ち替えた。
「はい、宮下です」
「降谷です。い――」
私はその言葉の続きを聞くこともなく懐中電灯の持っていない方の手でガラケーを手に取りピッと通話を切り画面を閉じると何事もなかったかのように定位置のポケットに突っ込み再び点検を再開した。
丁度運転席から顔を出していた執事さんの見開いた目が合う。ある意味修羅場を目撃されてしまった。通話を切った数秒、もう一度かかってくるコール音。時差的におそらく同一人物だろう。今度は手に取ることなくコール音をBGMにしながらいつもの作業をこなしてゆく。
「あ、え、いいんですか?」
父の代からうちを使ってくれている顔見知りの執事さんだ。ここを使うお客様はだいたい相手も想像がついているに違いない。それを踏まえてでの確認だろう。
「腐れ縁という奴ですからお気に召さらず。メンテナンス終わったらお部屋の電話でお知らせするので、あんまりいいものではないですけど最近ウォーターサーバー設置したのでお好きに飲んでください」
「え、ええ、分かりました。では失礼して……ああ、そういえばこちら、勝典様から宮下様へとのことです。お部屋に置いておきますね」
そう言って執事さんが目の前に出したのは有名な和菓子店の紙袋。先々月は有名店のドーナツを、その前は高級店のチョコレートを頂いたばかりなのに。
人柄なのか癖なのか、それとも私の知らない世界ではそんな風習が存在するのかは不明だが、手土産を持ってやってくるお客さんは結構いる。
勝典さんのように毎度持ってやってくる方もいるが断るのも申し訳ないのでこちらもありがたく頂戴してはいるが、おかげで家は貰い物のお菓子や紙袋でいっぱいでお菓子類はここ数年買っていない。すべて頂き物だ。割と小食な方なので食費もかなり浮いている。
「いつもありがとうございます。でも今日も何もなければ20分くらいで終わるんですから、たまには気軽に手ぶらで来ていただいて構いませんよ」
私は申し訳なさげに眉を下げながらもお礼を言った。
再び作業に戻り腰ポケットから手鏡を持つと取っ手のない薄型の台車に背を預けて車の下へ足を使ってスライドさせては黙々と点検していく。
こうして圧迫感なく車の下へ身を気軽に入れられるのも女の整備士の特権かもしれない。それに、画像と肉眼で見るのでは全く感覚が違うし作業もスムーズに進む。
流石の車好きの方ともあってか扱いも綺麗で、ありがたいことにメンテナンス前には必ず洗車もしてくれている良心的さ。これくらい丁寧な扱いなら月一回のメンテナンスでなくても季節の変わり目に一、二回程のペースでも全く問題はない。と、前に主である勝典さんに伝えたが『いいや、君に月一でメンテナンスをお願いしたい』と筋を通すので、今では月契約を結んで料金も便利な口座振替になっている。
最後にボンネットを開けオイル点検をしていると無数の毛が部品に複数ついているのが見えた。なにかと手に取ってみるとおそらく動物の毛。消去法と可能性からして猫、それも毛の薄さと細さからして子猫の毛だ。
自宅ではいつも車庫へ入れていると勝典さんが以前言ってた。もしかしたらとこか外出する際に停車していた先で野良がボンネットに忍び込んでしまったのかもしれない。おそらく動き出す時にはすでにボンネットから逃げ出したと思うけど、事故に繋がるかもしれないので念のため後で伝えておこう。それにこれから寒くなる季節はもっと頻繁に起こってくる。
もうそんな季節かぁ…、なんてひとりでにそんなことを考えながら残りの毛を取り払い綺麗にしているとガレージから居間を繋いでいる出入口のドアが開き執事さんが飛び出してきた。
「か、勝典様⁉」
「え⁉」
その名前を聞いた途端、執事さんと同じく慌ててガレージから庭へ出るとそこにはいつの間にかタクシーが止まっていた。後部座席のドアが開き「おつりはいらないです」と運転手に声をかけると黒のリムジンの主である勝典さんが小走りでこちらに向かってくる。
すでにパーティー衣装に身を着飾っており髪型もいつものセンター分けと違いオールバックにがっちりとセット済み、どう考えてもここへ来るような格好ではない。
鈴木治郎吉さん主催のパーティーに行くと言っていたはずなのに、そんな大切な用事の前にわざわざこんな離れまで来るとはさすがの私も驚く。これが心とお金の余裕というやつなのか。
「どうされたんですか!? 今日は鈴木治郎吉さんのパーティーに行くとお聞きしましたが…」
「行く前に君に会おうと思って、パーティーなんていつでも行けますので」
「あ、気をつけて下さい! 私今汚れてるので…」
皮手袋を外しながら勝典さんのところまで駆け寄るがさっきまで作業をしていたことに気づき、慌てて駆け寄っていた足を止め手を前に突き出しながら近づいて来る勝典さんと距離を取る。さっきまでオイルも触っていたし、あんなお高いスーツ汚したら大変だ。
「そんなこと、僕の前では気にしなくていいですよ。気になるのであればこれで拭いてください。」
そう言いながら勝典さんは胸元のポケットからハンカチを取り出すと私の腕を引きポンッと手の平に置いた。思わず『半袖来ててよかったぁ…』と声が漏れそうになる。長袖だったらきっと汚れてたに違いない。
モノグラム柄をしたハンカチに一度は躊躇ったものの、謝ってスーツを汚してしまうよりはマシかと遠慮なく私はハンカチで手の汚れを拭きとった。
「それとこれ、この前誕生日でしたよね。もうじき秋も終わりますし、宮下さん今年は新しいマフラーを買おうかとお話ししていたので」
勝典さんの背後から私の目の前に現れたのはあの有名ブランドの紙袋。思わずギョッと目が飛び出た。自分もお金がないわけではないが、というより給料は他より全然いい方だけど、今まで高級品に手を出したことなんて一度もない貧乏性の私には身に余る品だ。
「そんな高価なもの…」
「あなたの為に選んだんです、むしろ貰ってください」
「あ、ありがとうございます。なんかすいません、毎月いろんなもの頂いてしまって…」
「いいんですよ、僕の気持ちです」
押しに負けペコペコと頭を下げながら紙袋を私はおとなしく受け取った。
ついでにメンテナンスの終わったリムジンでパーティーへと向かうらしく、執事さんから預かっていた車のキーを手渡し、その間に「外出中乗る前に、特に寒い日はボンネットを軽く叩いてから乗ってくださいね」と念を押しながら二人をガレージへと案内する。
するとガシャンゴシャンと遠くから妙に聞き覚えのある嫌な音が微かに聞こえ振り返った。そこにはいつも通りの敷地の庭とそれを囲む林と私道が広がっている。
いいや、間違えるはずがない。この音を聞いた日から数週間、最悪一ヶ月、私はまともな生活をした覚えがない。
確実に、――嫌な予感しかしない。
確信したかのように私は二人を先に行かせてその場で立ち止まる。そのまま敷地の出入り口である私道を見つめながら呆然と立ち尽くした。そして肉眼で何かが見えるようになった瞬間、私は想像通りの、いや――想像を遥かに超えた光景に思わず顔を引きつらせた。
大きなキャリアカーが右折し敷地内の庭へと入って来る。その後ろには一台の身に覚えのありすぎるボロクソになった白のマツダのRX-7。ここまではいつも通りの光景だ。
ただ、見るからに前回よりも酷い有様だ。ドアは片方ないし、根元から逝っちゃってるもん。いいや、もしかしたら廃車の依頼かもしれない。そうだ。絶対にそうだ。
「す、すごい壊れ方ですね…」
声のする方へ振り返れば先に送り出したはずの勝典さんがボロボロになったRX-7を見てそう呟いていた。普通、誰でもこういう反応になる。むしろこれで驚かない人は人間じゃない。
やって来たキャリアカーが庭に止まると助手席から降りて来たのは褐色の肌に金髪のあの男。
逆に愛車を廃車寸前まで破損させて平然とした顔で修理にやってくる彼はもうとっくの昔に人間でなかったのかもしれない。ましてやそんな人が警察官なんて誰が想像できる。
重い脚を引っぱたいて
未だボロボロになったRX-7を見つめ唖然とする勝典さんの目の前を通り彼の元へと気だるげに駆ける。対して彼はこちらに呑気に歩いて来ると「宮下」と、口を開いた。
「降谷くん、廃車の手続きだったら…」
「どこを回っても治せないとたらい回しなんだ」
「当たり前だろ」
降谷くんのそのセリフに思わず真顔で突っ込んでしまった。年上なのに。
一体何回目だ、何回聞いたんだこのセリフ。『治してくれ、君しかいなんだ』と遠まわしに言わんばかりのセリフ。もはやテンプレート化している。慈悲というものがないのはこの男は。ここまでくれば金を払えばいいと言う問題ではない。
「あの、言いましたよね私。あのパーツ次壊れたらもう手に負えないって、絶対完全に壊れてますよねこれ。こんなボロボロになっても治して欲しいくらい大切な車ならそれなりにもっと大切に扱ってくださいよ! 降谷くんも同じです。いくら仕事だからって死ぬことを天秤にかけてまですることじゃないでしょう!」
「すまない」
「すまないって…私はいいかもしれないけど、降谷くん修理に今まで何千万かけてるの?」
お客さんの前で始まる説教に、すでにリムジンをガレージから庭へ移動し終えていた使用人もその主の勝典さんも釘づけだ。
しかもここまで言っているというのに目の前の降谷くんは反省の色が以前よりも伺えない。まるで聞き流しているような態度と、不自然に合わない目線にしびれを切らした私はジャケットの襟元を掴み控えめに引っ張るとそれに気づいた降谷くんとやっと目が合った。
「ちょっと、どこ見てんの? 今私が――」
「宮下さん」
ポンッと、突然後ろから肩に手を置かれる感覚にびっくりして、思わず握っていた襟元を離してしまう。まるで会話を切るようなはっきりとした呼び声に振り返るとそこには先ほどまで呆然と立ち尽くしていた勝典さんがいた。
「顔に汚れが…」
そう言って不意に伸びて来た手の温かな感触に思わず肩がビクッと跳ね上がる。それに咄嗟自分の手で頬を覆うように押し当てた。
「ダメです! 汚れたら大変です!」
私の慌ただしい反応になのか、勝典さんはふっと優しく笑うと今度は頬に当てていた私の手を取った。
「今度、一緒にお食事でもいかがですか? もちろんエスコートしますよ。いつでも構いませんが、ぜひプレゼントしたマフラーを身に着けた姿を見たいものです」
「え!? いや、ほら私、綺麗な仕事ではないですし、どちらかと言えば汚れ作業ですし、勝典さんにはもっといい人が…」
そう言いながら、取られた手をそっと引き抜いた。
別に嘘は言っていない。汚れるし場合によっては自分の不注意で怪我もする。でも、こんな仕事柄女がやっているもんだから心配されたり、気を使ってもらったり、食事に誘ってもらったりなんてことや、さっきみたいに手土産を貰ったりプレゼントを貰ったことは数えきれないほどある。
特別美人でも可愛いわけでもないはず。だから私なんかよりも、もっと財閥のお嬢様とか、もっと美人で可愛い人とか、汚れ仕事じゃない人とかの方がどちらかと言えばお似合いだ。それも勝典さんなら尚更。
「それで、いつまでに直せますか?」
するとまた背後から切り詰めるような問いが降りかかる。
「予約したお客様が優先なので、言い訳は後でゆっくり聞くから居間で待ってて」
「どれくらいかかるんですか」
先ほどよりも低い声の問いかけに、私は思わずグッと息を飲んだ。
何をそんなに怒っているのか、仕事で寝不足でイライラでもしているのか。分かりやすくなぜか不機嫌な態度の降谷くんに私は一つ小さな為をすると人差し指と中指を二本突き立て降谷くんの顔の前にずいっと突き出した。
「2ヶ月」
「20」
「馬鹿! 無理に決まってるでしょそんなの!」
「それまでに終わらせてもらわないとこちらも困る」
「だったら最初っからこんなボロボロにしないで丁寧に扱いなさいって話よ!」
「次から気をつける」
「何回目よそれ」
「頼む、お願いだ」
「嫌!絶対いや! それに最低限海外から部品を輸入するには最長1ヶ月かかる。」
「じゃあ1ヶ月だ」
話にならなすぎて私は顔を引きつらせた。壊しておいてなんだその態度、それが人にお願いする態度か?
降谷くんに白い目を向けたまま腕を組んで黙り込んでいると勝典さんが後ろから「あの、」と、言いながら私の顔を覗き込んだ。
「そろそろお時間なので行きますね。お食事の件、急ぎではないので考えといてください」
「無理ですよ」
その勝典さんの頼み事に先に答えを出したのは私ではなく降谷くんだった。
「彼女、警察官に戻るので」
「け、警察…?」
「ちょっと!」
「ええ、彼女は元警察官なんです。僕は警察学校の時の同期でして」
一体降谷くんは何を言う。
警察官に戻る予定はないし、さらっと元警察官であることもバラされた。
「次! 次メンテナンスの時お返事しますので! ほら、執事さん待たれてますし、ここからだともう出ないと! パーティー楽しんできてください。おみあげ話待ってますので!マフラーも大切にしますので!」
慌てて私は勝典さんの背中を控えめに押しながらリムジンへと誘導する。ここに降谷くんと大切なお客様を同じ空間に置いてしまうのは危険だと私は認識した。
「それは良かった。今度は是非宮下さんの話も聞かせてください」
「もちろんです、こちらこそお待たせしてしまってすみません」
「いいえ、ではまた来年お伺いしますね」
その言葉に私はえっ?と拍子抜ける。
「あれ、うちの執事から聞いていないんですか? 実は私、来月から仕事でパリへ出張するんです。寂しいですが貴方に会えるのはまた来年です」
それを聞いて私は『なるほど』と納得する。だから今月はこんなに豪華なお土産ばかりなんだと。
「そうだったんですね、くれぐれも体にはお気をつけてください」
「ありがとう。ではまた」
そう言って勝典さんは車へと乗り込んだ。遠退いていく黒のリムジンに私は見えなくなるまで手を振り続けるとほっと肩を撫でおろした。
次は彼の番だ。未だ退くことなく隣で大人しく待っている降谷くんに私は顔を向けるが、今はお客さんはいない。
さっきまでの態度や営業スマイルとは程遠い、眉間に皺を寄せて彼を睨みつけるがやっぱり彼はいつも通り変わったよ様子は見られない。
「降谷くん」
「はい」
「なぜ私が元警察官なんてバラしたの、それに戻る予定なんてないのにどうしてそんな嘘を」
「そうでもしないと引き下がらなかっただろ」
「さっきみたいに考えておきますって先延ばしすればいいの」
そう言って私は降谷くんに手を差し出す。
頭に?を浮かべ私の手の平を見つめる降谷くんに私は一言「スマホ」と言うと胸元のポケットから降谷くんはスマホを取り出しロックを解除した。
手渡された生温かな降谷くん体温を移したスマホを手に取ると私は電卓機能に手馴れた手つきで数字を打ち込み始める。
「………部品、塗装、ワックス、オイル、輸入料、その他諸々、プラススピード料金300万。880万前払いよ」
自分で言っておいてあれだけど、それでも嫌気が差す値段だ。本当はありえない、スピード料金300万なんて。
この前のスピード料金は30万円程度だったからさすがの降谷くんも異変に気付くだろう。いいや、気づかないはずがない。
それとも、そこまでしてでも譲れない何かがある?
一般人のもう警察官ではない私に言えない何かが。
それに、たとえそうだとしてもそうでなかったとしても、こうでもしないとこの男は引き下がらない。
彼がなぜそこまでしてこの車に執着するかは分からないが、いままで掛かった修理費を考えたらもういっそ同じ車種の新品のRX‐7を買った方が安いはずなのに。
「いつもの口座か」
「…………ええ」
「…わかった。出来たらすぐ電話してくれ」
そう端的に告げると降谷くんはキャリアカーへと戻ると何やら運転席にいる男と話している。
窓から見えるのはモスグリーンのスーツを着た眼鏡で短髪の男性。格好から見るに業者の人ではない。その彼が今度は降谷くんとすれ違うように運転席から降り、降谷くんは助手席へと戻っていた。
下りて来た眼鏡の彼の手にあるのはRX-7のキーとそのスマートキー。それに気づいた私は彼に駆け寄るとそれに気づいた彼も歩みを止めた。
「移動はいいよ、私がやっておくのでキーだけ下さい。一応、動くんですよね?」
「え? えぇ、すごいですね、見ただけでわかるなんて」
「まあ、五年もやってますからね。お疲れ様、彼が上司じゃ大変ですよね」
それを聞いた彼は少し戸惑った表情を見せ目を泳がせたが、すぐにフッと笑みを漏らし優し気な笑みを浮かべた。
「ええ、とても大変です。大変ですけど、彼のストイックさは、尊敬しています」
その言葉に私は思わず目を丸くした。悪い意味ではなく、いい意味で予想外だった。ふぅんと喉を鳴らすと私は眼鏡の彼から車のキーを受け取った。
「でも、あんまり調子に乗らせないようにね。なんかやらかしたら怒っていいから。あとこれ、動かしたらすぐ帰っていいよ、レンタル料金もあるでしょうし」
「ええ、ではお言葉に甘えて」
私はそう伝えるとすぐにトラクター後ろのシャーシへよじ登りボロボロで丸ごとドアの外れたRX-7運転席へ乗り込みキーを差し込んで回す。
流石に一回ではエンジンはかからず四、五回同じように繰り返せばガコンガシャンとものすごい音と振動と共にエンジンがかかる。申し訳ないが思わず吹き出しそうになってしまった。
動かせるということはガソリンタンクやハンドルに繋がる部品はある程度無事なんだろう。むしろ奇跡なくらいだ。
なんなら致命的になる傷だけ避けてある。随分器用なことだ。これはガソリン漏れで爆発でもしないと永遠にこのループを繰り返すに違いない。もういっそのこと爆発してもいいんだぞRX-7。
なんて本人に聞かれたら殺されるなと思いながら、バックでRX-7をキャリアカーから下ろしていく。丁度下ろしたタイミングで目の前のキャリアカーが動き出した。
大きくハンドルを切って出入口へと左折すると、ちょうど左右を確認するタイミング運転席にいる眼鏡の彼と目が合い、私が手を振ると一度会釈をして私道へと乗り出し降谷くん達はボロボロになったRX-7を置いて元来た道を帰って行った。
後部座席に置いてある丸ごと外れた運転席のドアの欠片を軽く確認して運転席から降りる。
そしてもう一度少し離れて真正面から降谷くんの愛車であるRX‐7を直視した。
降谷くんもRX‐7も命をかけ過ぎている。
でも、もしかしたら、ある意味運命共同体なのかも。
私の知っている車好きは口をそろえて相棒だの恋人だの言って綺麗に扱っているというのに。
よく世間一般では、モノへの扱い方は恋人への扱いと同じと聞いたことがある。ボロボロになったRX‐7を見ながら思わず乾いた笑いが漏れてしまう。
まさかね。でも、これだけ見たら絶対DV彼氏だ。乾いた笑いが快活な笑いへと変わっていく。
「お金と権力だけ持ち合わせた無慈悲な男で、ああいう扱いをする奴とはさっさと別れた方がいいよ?」
でも、冷静になって考えたら、どちらの気持ちも分かる気がした。
「まぁ、本当に嫌いだったら、あんな大金払って治しになんて来ないよね。………ツンデレってやつ?」
真っ白の塗装にハッキリとボンネットに刻まれた擦り傷をなぞりながら私はそう呟いた。
×××
「部品が廃盤?」
『ああ、ちょうど一ヶ月前に契約を終了したとメーカーが…それにまだ終了して一ヶ月だからヴィンテージモノの流通もなくて…』
「わかった、いつもありがとう。後で口座に振り込んでおくから」
『いいよいいよ、何もしてないんだし』
「探してもらったんだから、対価だよ対価。それじゃあまた何かあったらお願いね」
そう言って私はパタンッ、とガラケーを閉じガレージのパイプ椅子に背を預け抜け殻のように伸びる。
時刻は深夜一時、ガレージの二階――夕暮れ色に染まっているランタンと蛍光灯に小さな蛾が数匹集まっている。
もう小っちゃい虫でわーきゃー騒ぐか弱い女ではなくなってしまったことになぜだか悲しくなる。
「契約終了って…、契約終了する前に私に先に許可取ってよぉ…」
腕を顔に被せ現実を受け止めきれずぐずぐずとうねり、光に群がる芋虫のごとく現実逃避する。
朝よりも大きなため息を吐くと同時にパイプ椅子から立ち上がると、用具用の引き出しを漁り取り出したのは鉄同士を接合したり固定する為に使われる“はんだ”という工具。まだ電気の通ていないコンセントに差し込んで、机の端に立てると、今度はそこらへんに落ちていた針金と鉄の板の欠片を拾い上げる。
ボロボロになった部品と一緒に綺麗に作業台に並べ、一度腕を組んで考え込むと皮手袋と作業台の目の前の壁にかけてあった安全ゴーグルを身に着けたのを合図に安全靴でコンセントの電源ボタンを器用にオンに変えた。