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コメント
1件
うわあ、ここにきて一気に伏線が回収されていく感じがたまらないですね。真柴さんの「恐れ入りますが」という口癖が交換手の間で有名だったという発見、ゾクゾクしました。あの人の冷静さの裏で着々と準備が進んでいたんだなあ。 それにしても、大奥様の「二度、この家の嫁が死んでいくのを黙って見ていた。三度目はありません」という台詞にぐっときました。自分の言葉でちゃんと覚悟を示してくれたのが嬉しい。 残り五日。栞さんが警視庁で何を見るのか、もう待ちきれないです!
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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帰りの市電の中で、百合絵様は、一言も口をきかなかった。
窓の外を、浅草の瓦屋根が流れていく。百合絵様は、膝の上で、自分の指をきつく組んでいた。
「……あの方、真柴のお母様なのね」
上野を過ぎたあたりで、ようやく、ぽつりと言った。
「それなら、あたくしの」
その先は、言わなかった。
言わなくても、わかった。父親を同じくする人。百合絵様にとって、真柴さんは、兄だった。
その夜、大奥様の居間の隣の、四畳半に、布団を敷いてもらった。
和館で眠るのは、嫁いで初めてだった。襖一枚向こうから、大奥様の、寝息とも溜め息ともつかない音が、時おり聞こえてきた。
天井の木目を見ながら、私は、ふささんの手の冷たさを思い出していた。あの子は、何か、悪いことをしているのでしょうか。
答えられなかった問いの代わりに、私は、起き上がって、行灯の下で手紙を書いた。
宛名は、時田フミ。中央電話局の、交換手。
夜明け前に、篠原さんが、それを持って、フミさんの寄宿舎へ走ってくれた。
*
八月二十七日の朝、宮内省の封書が届いた。
宛名は、大奥様だった。厚手の奉書の封筒に、宗秩寮、の文字。
大奥様は、居間の文机の前で、それを開いた。私と百合絵様は、その脇に座っていた。
大奥様は、黙って読み終えると、私に紙を差し出した。
九月一日正午、久遠寺侯爵邸大広間ニ於テ、親族会ヲ開ク。宗秩寮審議官高階、之ニ立会フ。議題、当主ノ進退ニ関スル件。
「進退、とは」
「隠居のことです」
大奥様の声は、平らだった。
「華族の当主が、罪に問われて引かれた。宮内省としては、家の体面を保つために、当主に隠居を勧める。親族会で、皆がそれを望めば、断るのは難しい。……前にも、そういう家がありました」
百合絵様が、息を呑んだ。
「お兄様が、隠居なさったら、この家は、どうなるの」
「冬馬さんには、子がおりません。次の当主は、家の者の中から選ぶことになります」
大奥様は、そこで、言葉を切った。
選ぶのは、親族会。その顔ぶれは、ミモザの奥の席で、厚い封筒を受け取った、分家の御当主たちだ。
そして、選ばれる者の中に、兄弟がいれば、まず、その者。百合絵様より、先に。
襖の向こうで、衣擦れの音がした。
「大奥様。宗秩寮よりのお知らせ、御覧になりましたでしょうか」
真柴さんだった。廊下に膝をつき、襖を細く開けて、頭を下げている。
「当日の大広間の支度、御分家への御案内、審議官様のお迎え。すべて、私が取り計らいます。大奥様は、どうぞお体をお休めくださいませ」
「下がりなさい」
大奥様は、扇子を膝に置いたまま、そちらを見もしなかった。
襖が、音もなく閉まった。足音が遠ざかるまで、誰も口をきかなかった。
日下部先生の声が、耳の奥で鳴った。
私は、紙を握る指に、力をこめた。
「真柴さんは、その席で、出すつもりです」
大奥様と百合絵様が、私を見た。
「先代様の御遺言。明治の日付で、明治の紋の紙に書かれた、もう一通の御遺言。新しく見つかった、と言って。そこに、真柴宗介を我が子と認める、と書いてあれば」
冬馬様が隠居すれば、この家に、嗣子はいない。
遺言で認められた庶子が、親族会の選定で、家督を継ぐ。
母さん、もうすぐだ。もうすぐ、父上の御名で、認めてもらえる。
九月一日の、正午に。
*
昼過ぎ、私は、篠原さんと、丸の内の中央電話局へ向かった。
赤煉瓦の建物の裏手、守衛の立つ通用口の脇で、耳隠しの女が、待ちかねたように手を振った。
「栞さん! 手紙、読んだわよ。あなたって、本当に、とんでもないことばかり頼むんだから」
フミさんは、丸い頬を赤くして、早口でまくしたてた。
それから、急に声を落とした。
「白河先輩のこと、何か、わかったのね。手紙の字でわかるわ。栞さんの字、急ぐと右へ傾くもの」
「……もうすぐ、全部、お話しできます」
フミさんは、唇をきゅっと結んで、うなずいた。
「でもね、最初に言っておくけど。市内の通話は、料金票が残らないの。市外とは違うのよ。誰がどこへかけたかなんて、帳面のどこにも書いてない」
私の肩が、落ちかけた。
フミさんは、それを見て、にやりと笑った。
「帳面には、ね」
「麻布の鳥居坂のお屋敷の電話は、芝の分局の受け持ちなの。芝局に、私の見習い時代の同期がいるのよ。ハルちゃんっていうの」
フミさんは、手帳を開いた。小さな字が、びっしりと並んでいた。
「交換手はね、話の中身は聞かない決まり。でも、つなぐ相手の番号は、耳と手が覚えてる。それに、ハルちゃんは言うのよ。鳥居坂のお屋敷なら、忘れようがないって」
「なぜ」
「交換手のあいだで、有名なんですって。鳥居坂の、丁寧さん」
フミさんは、声色を作った。
「恐れ入りますが、京橋の何番を。恐れ入りますが、宮内省を。……交換手にまで、いちいち、恐れ入りますが、って言う男の人。そんな人、帝都じゅう探しても、ほかにいないって」
恐れ入りますが、奥様。
渡り廊下で、書斎の戸口で、何度も聞いた声だった。
フミさんは、手帳の頁を、指でなぞった。
「八月二十日。京橋の、村瀬法律事務所。二十二日の朝、宮内省。宗秩寮のお部屋へ回してくれって。同じ日の午後、麻布と赤坂の、久遠寺さんの分家のお屋敷へ、続けて二軒」
指が、一行下で止まった。
「それから、八月二十三日の朝、十一時ごろ。警視庁」
私は、手帳を覗きこんだ。
「刑事部を、って。その一時間ほどあとに、また宮内省」
二十三日の、十一時。
冬馬様と私が、会館の午餐会へ出かけた、すぐあとだった。
*
帰り道、日比谷の濠端を歩きながら、私は、手帳の行を、頭の中で並べ直した。
二十一日の午後、ミモザで、真柴さんは、もう九月一日と言っていた。
二十二日の朝、宮内省へ電話をかけた。冬馬様が引かれる、前の日に。
二十三日の朝、冬馬様が会館へ出かけるのを見送ってから、警視庁へ電話をかけた。
居場所を、教えたのだ。華族の当主たちと、その奥方たちが、そろって見ている前で、侯爵が引かれていくように。
そして、会館の車寄せで、扉を開けて、私を待っていた。
何もかも、前から、決まっていた。
少なくとも、宿題にしては重すぎる風呂敷包みのことを、あの人が玄関で口にした、あの朝には。
「奥様」
篠原さんが、隣で、低い声で言った。
「御前を、九月一日の正午までに、外へお出ししなければ」
「ええ」
冬馬様が、警視庁の留置場にいるあいだに、親族会が開かれる。当主のいない大広間で、当主の進退が決まる。
冬馬様は、自分の家の大広間に、座ることさえできない。
私は、帯締めに指をかけた。銀座の小間物屋で、冬馬様が長いこと迷って選んでくれた、淡い藤色。
君に似合うと思ったのは、本当だ。
あの声を、もう一度聞くためなら、何でもしようと思った。
*
その夜、大奥様の居間で、私は、昼間わかったことを全部話した。
大奥様は、白檀の扇子を膝に置いたまま、最後まで黙って聞いていた。
聞き終えると、ゆっくりと扇子を開き、また閉じた。
「あなたの目で、冬馬さんを、出しておやりなさい」
大奥様は、私を見ずに言った。
「私は、二度、この家の嫁が死んでいくのを、黙って見ていました。……三度目は、ありません」
百合絵様が、大奥様の袖に、そっと手を添えた。大奥様は、それを払わなかった。
「明日、警視庁へ参ります」
私は言った。
「鬼塚警部補に、宇佐美先生の遺書の、本物を見せていただきます。タイプで打った紙なら、私に読めないものは、ありません」
大奥様は、うなずいた。
自分の四畳半に戻って、行灯を消そうとしたとき、柱に掛かった日めくりの暦が、目に入った。
大きな墨の数字が、闇の中に、白く浮かんでいた。
今日は、八月二十七日。
九月一日の正午まで、残り、五日だった。