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「けど、大事なお嬢さんを預かるのに、何も言わないという訳にいかないでしょう」
「そ、それなのですが……」
私は声のトーンを落とし、ボソボソと言う。
「急になぜ〝エデンズ・ホテル東京〟の副社長が、茨城の蕎麦屋を買収するのか、母も弟も親戚も、納得できる理由がなければ頷かないと思います。……その代償が契約恋人になる事と知ったら、……心配して反対するに決まっています」
「確かにその通りですね。……でも、れっきとした理由がありまして、……実は私、〝手打蕎麦 みつみね〟のファンなんです」
「ええっ!?」
いきなり実家の蕎麦屋の名前が出て、私は声を上げる。
「……だ……っ、だって……、茨城にあるんですよ? 都内の高級蕎麦屋じゃないですし」
「美味しかったら車を飛ばしません?」
副社長はキョトンとして言い、その様子で彼が嘘を言っていないのが分かった。
「……ど、どうして先に言ってくださらなかったんですか?」
「君に契約恋人になってほしいと伝えるのに、まず自分の言葉で伝えないといけないと思ったからです。蕎麦屋の話題が出れば、三峯さんは何がなんでも借金を返済し、ご家族を安心させなければ……と気負うでしょう。この話を先にしても後にしても、あなたの目的は同じですが、先に契約恋人になる事を了承してもらいたかったのです」
「はぁ……」
私は一気に脱力し、背中を丸める。
「……父の蕎麦、お好きでしたか?」
尋ねると、副社長は「はい!」と笑顔で答えた。
「十割蕎麦に拘っていて、蕎麦湯もあのトロッとしたのが凄く美味しかったんですよね。蕎麦湯だけでも永遠に飲んでいたかったほどです。……ホールスタッフとして働かれていたお母様の顔も覚えていますし、店にいたお弟子さんが独立されたのも知っています。それに、先代から味を継承した歴史ある店なのに、あちこちガタがきているのに直せていない事が気がかりでした。……きっと経営がうまくいっていないのでは……と思っていましたが、ただの客がそんな事を言える訳がありません。ご主人が求めていないのに買収の話をしたとして、突っぱねられて終わりだったでしょう。……だからずっと〝みつみね〟の事は気に掛けてきたんです」
副社長が本当にうちの店に来てくれていたのだと知り、目の奥が熱くなる。
――お父さん、こんなに立派な人がお客さんだったんだよ。
――お父さんの蕎麦を『美味しい』って思ってくれていたんだよ。
心の中で語りかけるも、もう父が返事をする事はない。
「……っ、すみません……っ、……嬉しくて……っ」
私はズッと洟を啜り、会釈をしてテーブルの上のティッシュをとり、涙を拭ってから洟をかんだ。
「だから、買収の件に関しては私に任せてください。……三峯さんと恋人契約を結びたいと言ったのは、とっかかりのようなものなのです。私はあの店の蕎麦をまだ食べたい。お弟子さんにコンタクトをとり、なんとか〝みつみね〟を存続させていきたいのです。……でも、あなたがいなければ私はあの店に関わる事はできなかった。……三峯さんが弊社の面接を受けてくださったのは、運命がかったご縁と思っています。それに三峯さんも、無条件で蕎麦屋を援助されるよりは、何らかの形で返したほうが、気持ちが軽くなるのではないですか?」
「……そうですね」
今、やっとすべてストンと理解した。
これなら、恋人契約の事もすんなり受け入れられる。
「私と恋人契約を結ぶ事をご家族に打ち明けづらいのは分かりますが、正直に言ったほうが変に誤解されなくて済むかもしれません。ご実家を出て都内で暮らすと言ったら、お母様はどこで暮らすのか当然お聞きになるでしょう。その時に嘘の住所を教える訳にいきません。『副社長が蕎麦屋のファンで、面接が終わったあとに個人的に話をしたら、父が亡くなり二億の負債があると判明した。〝みつみね〟の蕎麦を食べたい副社長は買収の話を持ちかけるが、ただで二億の負債を肩代わりする酔狂者ではない。多忙を極めて家庭的な料理に飢えているから、三峯さんに家政婦として働いてもらう事を条件とした』……こんなところでいいでしょう」
「は……、はい」
若干、それだと副社長の印象が悪くなったように思えるけれど、彼が構わないと言うならいいのだろう。
「……住んでいるマンションは私が所有している物件で、騒音対策に同じフロアにあるもう一軒を空けたままにしています。三峯さんには表向きそこで暮らしてもらう事にし、私の家で料理を作って食事をしてもらいます。せっかく作ったのに、それぞれ一人で食べるなんて味気ないですしね。最初は同棲と言いましたが、抵抗があるならそちらの家で過ごしても結構です」
それだと、かなり副社長に譲歩させてしまった形になる。
さっき決意したんだから、より楽な条件が出たからと言って心を動かしては駄目だ。
「いえ、副社長さえ嫌でないのなら、同棲のままで結構です」
「分かりました。……では、こんなところでいいでしょう。次の週末、ご実家に迎えに行きます。お母様と弟さん、ご親戚の方にお声がけしておいてください」
「はい、宜しくお願いいたします」
私はもう何の不安もなく――、と言ったら嘘になるけれど、新しい生活を始めようと決意した。