今日も線で描いたような静かな雨がずっと降り続いている。どうやらこの街も本格的に梅雨入りしたらしい。
いつものように洗濯が終わるまでの間、コインランドリーの中央に設置されているベンチへと腰掛け、雨を眺める私の横には雨の日の恋人、涼が座っている。
「うん、雨を眺めるのって悪くないね」
隣のスぺースに座る涼は、私を真似て同じようにぼーっと外を眺めている。涼の定位置だったはずのパイプ椅子には、洗濯が終わるまでの間、彼が読んでいた本が置かれているが、最近はその本を読んでいる姿を見ていない。
「すごく落ち着きますよね。何も考えず無になれるのが気に入ってて」
「確かに。もっと早く知りたかったな」
空を仰ぐその横顔に、ふと見入ってしまっている自分に驚いた。綺麗で、どこか儚くて、見ているこっちが何故か切なさに胸が痛むような、そんな彼の纏う雰囲気に息を飲む。
「思ったんだけど、ソレ、やめない?」
急に振り向かれ、ビクリと肩が震えたが、見ていたことがバレるのはなんとなく嫌で冷静を装って返事を返す。
「なんのことですか?」
「敬語!俺たち恋人同士でしょ?敬語で話すのはおかしいと思うけど」
「そういうカップルもいると思います」
「俺は嫌だな。なんだか心の距離を感じる」
その言葉を聞いて、私の頭の中にはクエスチョンマークが浮かぶ。だってこれはただのお遊びで、私たちがやっているのは恋人ごっこ。心の距離があるのは同然のことで、それを縮める必要があるのかも疑問だ。
「そう言われても急には直せません。涼は年上だからいいかもしれないけど……」
「……」
「……なに?」
「名前呼んでくれた」
「だって、そういうルールだから」
「うん、ありがとう」
今の“ありがとう”は何に対してのものなんだろう。名前を呼んだこと?約束を守ったこと?どちらにせよ、大袈裟だ。
「急には直せないのなら今回も練習が必要だね」
「いや、いいで――」
「俺の言うこと、リピートしてみて」
涼のこの顔、見覚えがある。やるまで終わらないな、これは……。
「……分かった」
渋々返事をすると、涼は満足そうに微笑んで
「じゃあ初めはー」
と、新しい遊びをスタートさせた。
「涼、大好きだよ」
涼の言葉は、洗濯機の回転が止まったタイミングとちょうどに重なって、強調されるようにコインランドリー内に響いた。反響して聞こえる最後の一音までじっくりと聞いた後、私は言いたいことのすべてを詰め込んだ視線を涼に投げかける。目が合った涼の顔は険しい。
「凄い顔。とても恋人に見せる顔とは思えないよ」
「そっちこそ、誘導してそんなこと言わせようとするなんて、恋人としてどうなんでしょう」
「よし分かった。じゃあ“涼、ぎゅってして”で許そう」
「上がってるんですよ、ハードル」
「もう、ワガママだなー」
はい!?なんですって?ワガママなんて、親にも元カレにも言われたこと無いんですけど……?
「しょうがない……。じゃあ“涼、洗濯終わったから一緒に畳もう?”でいいよ。でもちゃんと可愛く言って。これだけは譲れない」
なんの冗談かと思ったが、どの提案を口にしているときも、涼の顔は至って真剣で、今か今かと私がそのセリフを言うのを待っている。私が息を大きく吸って、なにか言葉を言う素振りをすると、涼の眉は上に上がる。
思わせぶりな態度をとりつつ、何も言わずにただ息を吐いて深呼吸をして見せると、目を細めて不機嫌そうに頬を膨らませた。
「……ふッ」
込み上げてきたものを、堪えきれずについ笑ってしまった。だってこんなの、練習でもなんでもない。
「なんで全部ときめきワード?しかも必ず名前入ってるし。あはは、どんだけ言わせたいのよ」
「うわ、必死さ伝わってた?」
「うん、ひしひしと」
「ひしひしかぁ」
恥ずかしがるように両手で顔を隠す涼。なんだ、その乙女な反応は。
「照れるとこ間違ってるって。さっきまであんな恥ずかしいこと言わそうとしてたのに。あー、おかし」
こんなに笑ったのはいつぶりだったっけ。涼と一緒にいると、自分のベースが乱されることに気付いてはいたけど、どういう訳か、それが嫌という感情はなく、自然にその状況を受け入れている自分がいる。
(どうしてだろう?)
ふと視線を感じて顔を上げると、じっと私の顔を覗き込む涼と視線が絡む。
「麻衣が笑ってくれるなら、羞恥心なんていくらでも捧げるよ」
もし、私たちが本当に心から愛し合って、お互いを大事に思っていたなら、この言葉はどんなふうに聞こえていたのだろう。考えたところで私には、それを想像することも出来ないから。
「それなら私は、その見返りに涼の願いをひとつ叶えてあげる」
せめて、私に出来ることを。
「あのサムい台詞は絶対言わないけどね」
「麻衣~!!」
「!?」
両手を広げて、距離を詰めようとしてきた涼の顔面を鷲掴んで制止させると、指の間から眉をひそめる涼と目が合って、絶望をにじませた一言を呟く。
「恋人にこの仕打ちは酷すぎる」
「どさくさに紛れてなにしようとしてるの」
「これ以上ないタイミングかと」
「どのタイミングでもありえないから」
「……」
「そんな顔してもダメ」
「残念」
どこまでが本気でどこまでがお遊びなのか、測り切れない私がうまく恋人ごっこを出来るようになるには、あと何回、雨の日を涼と一緒に過ごせばいいのだろう。そんなことを考えていたら、洗濯が終わったことを知らせるブサ―音がコインランドリー内に響き渡る。
「ほら、終わったみたいだよ」
「麻衣のだよ。俺のはとっくに終わってる」
振り返り確認すると、私が使用していた洗濯機の丸い窓からは、乾燥機のおかげでふわふわに仕上がった衣服が見えている。とっくに終わっていると言っていた涼が使用する洗濯機も見てみると、同じように乾いた衣服が見えた。
「終わったなら畳んだら?」
「うーん。後にする」
「そう」
涼はまた窓の外に視線を移し、雨を眺め始めた。その様子を横目で見ながら、全行程を終えた洗濯機の重たい扉を開け、まだ乾燥した熱の残る衣服をランドリーワゴンへと移し替えたとき。
ベンチから立ち上がった涼が、真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。適度な距離で止まる気配はない。整った顔はぐっと近づいた。
「なんかいい香りがする」
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