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仲間たちとの秋の飲み会で醜態を晒してから、ひと月ほどが過ぎた。そしてそれは、派遣契約の終了まで残りあとひと月というタイミングでもあった。
その日の夕方、仕事を終えて帰宅した直後、派遣会社の担当者である泉川から、次の勤務先についての打診の電話が入った。
その話に飛びつきかけたが、思いとどまった。相手先が私でいいと言ってくれるかどうか、まだ分からない話ではあるが、万が一来てほしいと言われたらどうしようと、二の足を踏んでしまったのだ。
泉川から紹介された派遣先は、県内ではもっとも規模が大きいテレビ局だった。配属先は編成広報局という部署。仕事内容は社員の補助的なものがメインで、事務的な作業が大半だという。将来的には契約社員として雇用される可能性もありそうだと、泉川は言う。
『いかがですか?時給も今までと比べてかなりいい方ですし、川口さんだったら、何の問題もなくお仕事できると思うのですが』
「そうですねぇ……」
本当はすぐにでも頷きたかった。けれど、そこには私が苦手とする人物がいる。矢嶋だ。アナウンサーの彼はそのテレビ局に勤務しているのだ。
「少し考えてもいいですか?」
『条件のいい仕事だと思うんですよねぇ。考える時間、一時間もあればいいですか?もしも川口さんがだめだったら、次の人に声をかけないといけないんで。ちなみに、年明けすぐから来てほしいっていうのが先方の要望なんです。だから、川口さん的にもいいタイミングなんじゃないかと思いますよ』
「分かりました。申し訳ありませんが、いったん電話を切らせてください」
泉川との通話を終えて、私はため息をついた。その時、つけっぱなしにしてあったテレビの画面が切り替わった。昨夜映画を見た後、チャンネルをそのままにしてテレビを消してしまったらしい。画面には、私に決断を躊躇させる「彼」が爽やかな顔で映っていた。実物と全くの別人に見えて、私は苦笑する。
矢嶋は最近できた施設の紹介をしていた。
素の彼を知ってはいても、テレビというフィルターを通して見ると、腹が立つほどかっこいい。いつぞやの飲み会の席で、時にはファンレターをもらったりすることもあるのだと、困った顔で彼が話していたことがふと思い出された。
彼の声を聞き流しながら、私は複雑な気分でどうしようか考える。
大事なものを保管している小箱から通帳を取り出して、中を開いた。すぐにどうこうとなる経済状況ではないが、仕事のない状態が長く続くことになるのはとても困る。
例えば実家に戻り、地元で就職先を探すという手もなくはない。しかし、父が再婚相手と暮らすあの家には戻りたくない。
新しい母と暮らしたのは、私が大学進学で地元を離れるまでの三年に満たない間。特に継母と関係が悪かったわけではないが、互いに気を遣いすぎるような生活に疲れていた。距離を取った方が義母といい関係性を保てそうだし、父だって夫婦水入らずの方が気楽だろうと思った。私たちの間で、父も何かと気を遣っていたように見えたからだ。
『いつでも帰ってきてくれていいから』
大学に進学した時も、派遣ではあるがこちらで働くことを決めた時も、父も義母も温かい言葉をかけてくれた。しかし、いつかは身の立つような仕事について、実家に戻ることなく自活していきたいと考えている。もちろん正社員の道を目指した就職活動はしている。けれどご時世なのか、それとも私の能力不足なのか、なかなか結果が出ない。派遣の仕事をいったん離れて、就職活動に専念するという方法もあるが、収入が途切れるのは不安だ。
私は通帳を元に戻して、泉川の説明をメモした紙をじっと眺めた。
確かに時給は今までよりもいい。単に「いい」のではなく、「格段に」いい。それにこの機会を逃したら、次に条件のいい仕事に巡り合えるのがいつになるか分からない。正社員の仕事だってすぐに見つかるかというと、その保証はまったくない。
考えているうちに、矢嶋がいるからという理由でこの話を受けようか受けまいか悩むのが、ばかばかしく思えてきた。そもそも、仕事の場は編成広報局とかいう所だ。泉川の話を聞いた限りでは、その部署内だけでの仕事らしいし、大きな局だから、表舞台に立つアナウンサーの人たちとの接点などないだろう。つまり、余程のことでもない限り、矢嶋と顔を合わせたりはしないはずだ。
自問自答を繰り返した結果、一時間もせずに私の心は決まった。
話を受けることを泉川に伝えるために、私は携帯電話を手に取って、派遣会社の番号をタップした。
電話で話した結果、面談日が決まったと泉川から連絡が入ったのは、週明けてすぐのことだった。
着信があった時は業務中だったため、昼休みの時間になってから折り返しの電話を入れた。日時の確認をし、現在の職場の上司に休みを取る許可を得て、翌週早々に先方の関連部署の長たちに会うことになった。面談したその夕方には、泉川から結果を知らせる電話が入る。
『川口さんにお願いしたいということになりましたよ』
こうしてとんとん拍子に話が進み、年明けから私は、新しい派遣先であるMMテレビで働くことが決まった。
現在の勤務先との契約が終了した後も、空白期間を置かずに働けることになって、私は心から安堵した。矢嶋を理由にして即断るようなことをしないでよかったと、しみじみと思った。
契約終了の日まで、あとわずか。日々業務に取り組んでいたが、気づけば大晦日まで残すところあと二週間となっていた。
その夜、久しぶりに藍子から電話がかかってきた。本題は、年明けに開かれるOBOG会に参加するかどうかの確認だった。
私は迷わず欠席すると返事をした。
飲み会の予定日の二日後から、私は新しい職場で働くことになっていた。心の準備をしておきたいと思ったことの他に、もう一つ理由があった。もしも矢嶋が飲み会に参加するとしたら、彼と顔を会わせることになるのはとても気まずいと思ったのだ。
気まずいというのは、彼に迷惑をかけたことだけではない。あの夜のあの出来事が、私の記憶にまだ鮮明に残っていて、ふとした拍子に矢嶋の甘い声が耳の奥によみがえり、私の心をかき乱すのだ。あれは私をからかっただけ、と腹立たしく思うのに、言い表しようのない疼きを伴った感情が、あの夜以来ずっと胸の中で渦巻いている。悶々としたこの状態のままでは矢嶋に会えない。いや、会いたくない。彼の前で今までと同じ顔と態度でいられる自信がない。
それだけではない。彼が勤める会社で自分も働くことになったことを、うっかり口にしてしまいかねない。そんなことになったら、いい口実とばかりにますます私に絡んで来るに違いない。だから、飲み会には参加しない方が絶対にいいと思うのだ。
『残念ねぇ。じゃあまた、今度ね』
藍子が私の不参加の理由を詳しく追及しなかったことにほっとする。
「みんなにもよろしく言っておいてね」
私は詫びるように言い、電話を切った
#海辺の町
#ワンナイトラブ