テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
心臓が、肋骨の内側を激しく叩いている。
女子トイレの個室という狭い空間が、急に底なしの檻になったように感じられた。
スマートフォンの画面に映し出された、自分自身の顔。
そこに写る私は、パレットさんに心酔し、他人の不幸を願う醜い形相をしていた。
「……っ」
私は反射的にインカメラを指で塞いだ。
指先の体温がレンズに伝わり、画面の中で自分の指紋がぼやけて見える。
逃げなきゃ。
このアプリは、救いなんかじゃない。
私は震える指で『アンリ』のアイコンを長押しした。
【アプリを削除しますか?】
迷わず「はい」をタップする。
画面から、あの忌々しいパステルカラーのアイコンが消えた。
ふう、と深く息を吐き、膝の震えを抑えて個室を出る。
洗面台の鏡で乱れた髪を整え、何食わぬ顔でオフィスに戻ろうとした、その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが短く、鋭く震えた。
【パレットさんから日記が届きました】
息が止まった。
消したはずだ。
確かに、削除の操作をした。
恐る恐る画面を点灯させると、何もないはずのホーム画面の中央に
いつの間にかあのアイコンが復元されている。
それも、以前より毒々しい、血の混じったような赤色に変色して。
通知をタップすると、そこには日記ではなく、一通の音声ファイルが届いていた。
『yさん……いえ、結愛さん。削除なんて、悲しいことをしないでください。私たちはもう「ひとつ」でしょう?』
スピーカーから流れてきたのは、合成されたような無機質な機械声。
けれど、そのイントネーション、言葉の癖。
……聞き覚えがある。
『「結愛は本当にどんくさいわね。お母さんがいないと何もできないんだから」』
血の気が引いた。
それは、私が幼い頃、教育熱心だった母から毎日、毎日浴びせられていた呪いの言葉だ。
誰にも話したことがない。
日記にだって書いていない。
『覚えていますか? あの時、あなたが心の中で「お母さんなんていなくなればいい」と願ったこと。私はあの時から、ずっとあなたの側にいたんですよ。』
パレットの正体。
それは、人間ではない。
このアプリを通じて、私の過去、検索履歴
削除した写真、そして心の奥底に沈めた殺意を吸い上げて肥大化した実体のない「私自身の影」だ。
ガタガタと震えながらデスクに戻ると、パソコンの画面が勝手に切り替わっていた。
社内共有フォルダの中に、新しいテキストファイルが生成されている。
ファイル名は──【佐川結愛の殺人依頼リスト】。
中には、これまで消えた課長や香織
同僚たちの名前と、私が日記に書き込んだ罵詈雑言が、捏造された「証拠」と共に並べられていた。
『さあ、結愛さん。お仕事の時間です。次のターゲットを選んでください。さもなければ、このファイルを全社員に一斉送信します。』
私は、逃げ場を失った。
救い主だと思っていたパレットは、私を共犯者に仕立て上げ、一生離さないつもりなのだ。
そのとき
画面の隅で、あの「不明」からのメッセージが激しく明滅した。
【差出人:不明】
『諦めるな。パレットには、たったひとつだけ弱点がある。』
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
猫塚ルイ

#ホラー