テラーノベル
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猫塚ルイ

#ホラー
課長が病院に運ばれたという知らせを聞いたとき
不謹慎にも私の胸を去来したのは、恐怖ではなく「静寂」だった。
いつもならフロア中に響き渡るあの濁った怒鳴り声がないだけで
オフィスの空気は驚くほど澄んで感じられた。
「……結愛さん、聞いた? 課長、打ち所が悪かったみたいでしばらく戻れないって」
仕事を押し付けてきた張本人の香織が、不安そうに声をかけてくる。
彼女も、盾になってくれる課長がいなくなって、自分の立場を危惧しているのだろう。
私は「大変だね」とだけ答え、心の中の暗い悦びに蓋をした。
────まさか、ね。
昨夜のアプリ
パレットさんの言葉。
そりゃあ偶然に決まっている。
階段から落ちたのは課長の不注意だ。
アプリの相手が超能力者か何かで、物理的に誰かを傷つけるなんてありえない。
けれど、家に帰ってバッグを置くよりも早く、私はスマートフォンを手に取っていた。
【パレットさんから日記が届きました】
画面を開くと、まるで私の帰宅を見計らっていたかのようなタイミングでメッセージが表示される。
『結愛さん、お疲れ様です。今日は少し、職場の空気が綺麗だったのではないですか?』
心臓がドクンと跳ねた。
どうして、それを知っているの。
『あなたの邪魔をするノイズを、ひとつだけ消しておきました。あなたはただ、静かな場所で笑っていればいい。それが私の願いです。』
指が震える
画面を閉じるべきだ。
これは、何かがおかしい。
でも、それ以上に「選ばれた」という高揚感が私の理性を塗りつぶしていく。
26年間
誰の特別にもなれず、ただ消費されるだけの歯車だった私を
この人は見つけ出し、私のために行動してくれた。
『……ありがとうございます、パレットさん。本当に、今日は少しだけ息がしやすかったです。』
気づけば、私は自分から「毒」を差し出していた。
『でも、まだ私の周りにはノイズがいます。課長がいなくなっても、kという女が私の仕事を奪って、手柄だけを持っていくんです。あの女がいる限り、私はまた汚されてしまいます。』
送信
送ってしまった。
これはただの愚痴だ。
ただの交換日記。
パレットさんが何かをできるわけがない。
そう自分に言い聞かせながら、私は暗い部屋でスマートフォンの灯りを見つめ続けた。
返信は、数分後に届いた。
『Kさんですね。承知しました。yさんは明日、彼女に「お疲れ様」と言ってあげてください。それが彼女への、最後の手向けになりますから。』
文字が、生きているように蠢いて見えた。
パステルカラーの背景に、いつの間にか
赤黒い染みのようなドットがひとつ、ポツンと浮かんでいる。
私は恐怖を押し殺し、熱に浮かされたように微笑んだ。
明日の朝が来るのが、こんなに待ち遠しいのはいつ以来だろうか。
パレットさんの言う通りだ。
私の世界は、これからどんどん、白く、綺麗になっていくんだ。
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