第20話:教師のメッセージ
放課後、最後のチャイムが鳴り終わったあとも、アサギの教室だけは明かりが灯っていた。
灰色のスーツにシャツ。
その上に羽織るジャケットの袖には、擦れたような小さなほつれ。
アサギ・ミドウ。言語表現史担当――だが、生徒からは“何も語らない教師”と呼ばれている。
だが、その日。
教室の片隅に立ったまま、彼はゆっくりと呟いた。
「……お前たちには、渡しておく」
ミナトとナナが放課後の図書準備室に呼び出された。
理由は伏せられたまま、扉の内側、音声記録の届かない場所でアサギが机の引き出しを開ける。
取り出したのは、一枚の紙と、古い記録チップ。
「昔、俺も書いてたんだ」
「お前たちと同じように、“名前じゃない誰か”に向けてな」
アサギの目は笑っていなかった。
けれどその言葉には、長い沈黙を割るような熱があった。
紙には、万年筆の手書き。
字は乱れている。滲み、消されかけた箇所もある。
だが、それでも残っていた。
「沈黙は、平和のふりをしてやってくる。
だが本当の平和は、
“心が叫べる場所”のことだと、俺は信じている。」
ナナがゆっくりと読み上げたあと、静かに言った。
「……どうして、今まで誰にも渡さなかったんですか」
アサギは、目を伏せたまま答えた。
「自分の言葉が“誰かを危険にさらす”って、思ったからさ」
「俺の仲間は、ほとんど“削除”された。
記録も、名も、未来も、全部な」
「でも……お前たちを見てたら思った」
「“言葉を武器にする奴ら”じゃない。
“言葉で誰かの居場所をつくる奴ら”だってな」
ミナトは、その詩をゆっくりと両手で受け取った。
ナナも、そっと指先でページの角に触れた。
「これから先、お前たちの言葉はもっと消される。
監視も、圧力も強くなる。
でも、それでも書き続ける覚悟があるなら――」
アサギの視線が、真正面からミナトとナナに重なる。
「この詩は、お前たちのものだ。
俺はもう、何も書かない」
帰り道。
ミナトは手の中の詩を折りたたみ、胸ポケットにしまった。
ナナはそれを見て、言った。
「この言葉、きっと“終わった詩”じゃない。
“続きを書いていい詩”だと思う」
その夜、二人は連名で短い詩を投稿した。
署名はなかった。
けれど、その言葉の先頭には、アサギが残した冒頭の一節が使われていた。
「沈黙は、平和のふりをしてやってくる。
でも僕たちは、静かに火を灯していく――
それが、言葉でできる抵抗だから。」