テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
うめぼっち

706
#溺愛
うめぼっち

527
うめぼっち

609
#ざまぁ
うめぼっち

521
ソル=アンリが客として恩寵の館を訪れた夜から、半月が経過した。 リアーヌは、あの日から客を避けなくなった。指名が入れば、迷わず席を立つ。フリー客がサロンに入れば、積極的に自分を売り込む。リアーヌは学習した。受け身にならないことこそが、自分を守ることなのだと。受け身になれば、相手が主導権を握る。娼婦は高価な商品に過ぎない。購入した商品に遠慮する客はいない。自分のことは、自分で守らなければならない。だから自分から動いた。客の前では微笑み、相手の身分や立場を見極め、求められる言葉を選ぶ。酒の匂いが染みついた部屋でも、香水の甘さが鼻につく廊下でも、リアーヌは相手の目を見て話した。相手が何を望んでいるのかを考え、どの程度まで近づけば喜ぶのかを測った。
それを繰り返すうちに、客から声をかけられることも増えていた。ホールを横切るだけで、視線が追ってくる。そして、名前を呼ばれる。以前なら、そのたびに身体が強張っていた。けれど、今は違う。視線も、呼び声も、自分が上へ進むための足場だと思えるようになった。
その日も、リアーヌはセレーネの指導室にいた。
部屋の中には、香油と粉白粉の匂いが薄く漂っていた。壁際には化粧道具や衣装が整然と並び、細い瓶の中で色とりどりの液体が光を受けている。衣装の布地が擦れるかすかな音と、窓の外を通る風の音だけが、静かな室内に響いていた。
壁際には化粧道具や衣装が整然と並び、鏡の前には椅子が置かれている。
娼婦たちの接客や身だしなみを指導するための部屋だ。
大きな鏡には、部屋の中の様子が映っている。リアーヌはその前に座り、長い髪を横へ流していた。ここに来たばかりの頃とは、違う髪型だ。髪を片側に寄せ、片耳を出す。耳元に残った細い髪が、首筋に落ちている。それだけで、鏡の中の自分が以前よりも大人びて見えた。
「よく似合っているわ」
背後からセレーネが言った。
鏡の中で、セレーネの姿がリアーヌの肩越しに見えた。彼女は手にした櫛を化粧台に置き、リアーヌの髪の流れを確かめるように目を細めている。
リアーヌは鏡越しに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「前よりもずっと、客の目を引くでしょうね」
「そのために変えました」
「そう。頑張っているのね」
セレーネは小さく笑った。
その笑みが、鏡の中で一瞬だけ揺れた。
「最近、よく客を取っているそうじゃない。嫌にならない?」
窓の外で、風に揺れた木の葉がガラスをかすかに叩いた。
リアーヌは少しだけ考えてから、答えた。
「仕事、ですから」
セレーネは黙った。
部屋の中に、時計の針が進む音だけが残った。
鏡越しに、その視線がリアーヌへ向けられているのが分かる。
以前にも、同じ目をされたことがあった。館に来てすぐの頃、客を取る前の実地講習。あのときも、そうだった。何も知らない少女だった頃の自分を、セレーネはじっと見ていた。怯えているのか、混乱しているのか、それとも何かを諦めているのか。そうしたものを見極めようとするような目をしていた。
ややあって、セレーネが口を開く。
「短い間にずいぶんと変わったわね。最初は、客の前に出るだけでも嫌がっていたのに」
「……今も好きではありません。でも、嫌がっていることに気づかれたくない。そういうことに気づくと客は、横暴になりますから」
「そうね」
セレーネはそれ以上、何も言わなかった。
沈黙の中で、化粧台に並んだ小瓶の蓋が光を反射していた。甘い香りのする油、唇に色を差すための紅、肌を白く見せるための粉。どれも、客の目に映る自分を作るためのものだ。リアーヌはセレーネが黙った理由を考えようとした。
そのとき、指導室の扉が開いた。
蝶番が低く軋み、廊下の冷たい空気が室内に流れ込んでくる。
「リアーヌ」
入ってきたのは六十代の老婆、恩寵の館総支配人のマデロン・グリモワールだった。
リアーヌは立ち上がる。マデロンの姿が、鏡の中にも映った。扉の前に立つ老女の背後には、薄暗い廊下が伸びている。室内の明るさと廊下の影の境目に立つ姿は、どこか輪郭が曖昧だった。
マデロンは、いつものように何を考えているのか分からない笑みを浮かべていた。
「セレーネから聞いたよ。最近、ずいぶんと働いているそうじゃないか。客からの評判も悪くない」
マデロンの言葉に、リアーヌは背筋を伸ばした。
褒められている。そう理解するまでに、少し時間がかかった。
マデロンは目を細めた。
「最初はどうなるかと思ったけれどね。案外、化けるものだ」
その言葉に、リアーヌはわずかに目を伏せた。
化ける。まるで、以前の自分とは別人になったかのような言い方だった。
けれど、それでいい、とすぐに思い直す。ここで生き残るには、ここから出るには、自分自身さえ道具にしなければならない。そして今の自分には、それができている。リアーヌは微笑んだ。マデロンは頷き、にやりと笑った。
「今の調子でやりなさい」
「はい」
自信に満ちた声でリアーヌは答えた。
マデロンとセレーネの視線を受けながら、リアーヌは鏡の中の自分を見た。片耳を出した髪。以前よりも大人びた顔。鏡の縁に並ぶ化粧道具が、その姿を細かく切り取っている。そこに映っているのは、かつての貴族令嬢ではない。
けれど、リアーヌ自身は知っている。変わったのは、表面だけだ。本質までは変わらない。自分が自分であることをやめることは決してできない。だからせめて表面だけでも、目的のために作り変える。より多くの客を取るために。もっと上に行くために。そして復讐を遂げるために──
リアーヌは鏡から目を離し、指導室を後にした。
◇
開店までまだ時間がある。リアーヌは、エントランスホールのそばにある待機スペースへと向かった。廊下を進むにつれ、館の奥から聞こえていた物音が少しずつ近づいてきた。食器の触れ合う音、給仕たちの足音、遠くで誰かが笑う声。開店を待つ館全体が、静かな緊張を孕んで動き始めている。
そこはホールから少し離れた窓辺に設けられた、小さな一角だった。カウチソファといくつかの椅子。窓には、薄いカーテンが掛かっている。カーテンの向こうには、昼の光に照らされた歓楽街の路地が見えた。人通りはまばらで、植え込みの葉だけが風に揺れている。開店すれば、この場所は下級の娼婦たちが客を待つ場所として使われる。しかし今、この場所は、個室を持たない下級娼婦の休憩スペースになっていた。
リアーヌは窓辺のカウチソファに腰を下ろし、本を開く。
恩寵の館では、知識や情報を得ることも仕事の一部だった。客の身分や立場に応じた会話をするためには、幅広い知識が必要になる。だから、本を読むことは、誰にでも認められている。階級が低いからといって、読書を禁じられることはない。リアーヌにとって、それはありがたいことだった。本を読んでいる間だけは、自分が何者なのかを忘れていられるような気がした。
ページをめくると、乾いた紙の匂いが立ち上った。
薄いカーテン越しに差し込む昼の光が、床に淡い影を落としている。風が吹くたび、カーテンの裾がかすかに揺れ、光の形もゆっくりと変わった。
リアーヌは文字を追った。しかしほどなくして、向かい側の椅子が軋む音がした。人の気配を感じて、リアーヌは顔を上げる。
そこにいたのは、イレーヌだった。
イレーヌはリアーヌの姿を見るなり嫌悪も露わに顔をしかめた。
コメント
1件
第20話、読み終えました。 鏡の中の自分を見つめるリアーヌの視線が、すごく心に残っています。「表面だけ変えても本質は変わらない」という彼女の内面の強さと、それでも復讐のために自らを変えていこうとする覚悟…。セレーネが一瞬見せた沈黙や視線の揺れも、二人の関係性の深みを感じさせてくれました。イレーヌとの再会も気になります。これからの展開、本当に楽しみです🤍