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あの路地を離れたのは、考えた結果というより、そこに留まる理由がなくなったからだ。
さっきの襲撃が一度きりで終わるとは思えない、とソウタは当然のように言い切ったが、それに反論できる材料はどこにもない。むしろ、もう一度あの白い手袋が現れる場面を想像した瞬間、足は自然と前へ出ていた。
人の多い場所へ向かうべきだという判断も、理屈としては理解できる。だが、それを聞いたときに頭に浮かんだ”駅”という場所が、いつもより遠く感じられたのは、たぶん気のせいではない。
歩きながら、朝倉恒一は何度か振り返りそうになった。誰かに見られているような感覚が、背中に残り続けている。実際には何もいないと分かっていても、その感覚だけが消えない。
ミヤはそんなことを気にする様子もなく、隣を歩いている。ソウタも同じだ。自分だけが足を止めかけていることに気づくたび、置いて行かれるような妙な焦りが生まれた。
駅の入り口が見えたとき、ほっとしたのかどうか、自分でもわからなかった。ただ、見慣れたはずの場所が、どこか別のものに見える感覚がある。
改札の前に立ったとき、その違和感がはっきりと形を持った。
通れるはずだった。カードもあるし、普段と同じようにかざせばいい。それだけのことだ。
それなのに、足が動かない。
さっきまでの出来事が、頭の中に引っかかっている。人が消えたという事実と、何事もなかったかのように流れている目の前の光景とが、どうしても繋がらない。
改札の電子音が鳴るたびに、現実に戻されるような気がするのに、その現実の方がどこか薄い。
ふと視線を上げると、ミヤが何のためらいもなく改札を抜けていくところだった。
その腕の中には黒猫がいる。
止められる気配はない。ブザーも鳴らない。
それどころか、周囲の誰一人として気にしていない。
その光景を見て、恒一の思考が一度止まった。
おかしい、という感覚だけが先に浮かぶのに、どこがおかしいのかうまく言葉にならない。
続いてソウタが通る。こちらも同じだった。何も持っていないのに、自然に通り抜けていく。
改札と二人の背中を見比べながら、ようやく恒一の口が動いた。
「……いや、待てよ」
小さく漏れた声は、自分の中で思っていたよりもずっと弱かった。
何がおかしいのか、はっきりさせたいはずなのに、うまく整理できない。猫が通っていることなのか、それを誰も気にしていないことなのか、それともーー
全部か。
考えようとしたところで、人の流れに肩を押された。
立ち止まっている方が、むしろ不自然だった。前に進むしかない。
半ば押し出されるようにしてカードをかざすと、機械的な音が鳴り、体はそのまま改札を越えていた。
改札を抜けたあとも、違和感は消えなかった。
ようやく前を歩くミヤに追いつき、恒一は腹の中のものを一気に吐き出すように言った。
「ちょっと待て!」
ミヤが振り返った。
「なに?」
「なにじゃないだろ。今の普通におかしいだろ」
「そう?」
「そうだろ。猫いるし」
「いるね」
ミヤは猫の顎を人差し指で撫でた。
猫は気持ちよさそうに、ノドをごろごろと鳴らす。
「いるねじゃない!」
その間に、ソウタも横を通り抜けていく。
「お前も!」
「問題ない」
「なにが!?」
恒一は二人と改札を交互に見た。
「切符も持ってないだろ」
「必要ない」
「だから、その理由を言え!」
ミヤが笑いながら恒一とソウタの間に割って入った。
「このくらいは平気だよ」
「”このくらい”の基準が分からん!」
ホームに出ると、いつも通りのざわめきが広がっている。会話の断片や足音が重なり合い、特別なことなど何も起きていないように見える。
その中にいる自分だけが、少しずれている。
そんな感覚が消えないまま、電車が入ってきた。
風が抜け、人の流れが同じに動き出す。
恒一たちは逆らう理由もなく、そのまま乗り込んだ。
ドアが閉まり、ようやく落ち着ける思ったが、その感覚は長く続かなかった。
隣の車両の奥。人と人との隙間に見えた白いものが、記憶と結びつく。
手袋。
それだと気づいた瞬間、体の奥が冷える。
あの男だ。
人混みの中にいるはずなのに、そこだけが妙に浮いて見える。
逃げ場はない。
ここで何か起きれば、周りを巻き込む。
そう考えたところで、ミヤの声がかすかに聞こえた。
「次で降りる」
短いその一言で、迷いは消えた。
ソウタが前に出る気配がする。空気が張り詰めるのが分かる。
男が近づいてくる。距離が縮まる。
恒一はその流れを止めなければいけないと、はっきりわかった。
「やめろ」
それを無視して、ソウタはさらに前へ出ようとする。
「やめろって言ってんだよ」
背後からソウタの腕を掴んで引いた。
声が出たとき、自分でも少し驚いた。思っていたよりも大きな声だったからだ。
周囲の視線が一瞬だけ集まったが、それはすぐにスマホや外の風景に戻っていった。
振り返ったソウタの目が、わずかに冷えた。
「離せ」
「ここでやったらどうなるか分かってんのか」
「分かっている」
「人がいるんだぞ」
「関係ない」
「あるだろ!」
電車が次の駅の構内に流れ込んでいった。
ブレーキがかけられ、徐々にスピードがおちていく。
男が接近してくる。何やら手元が小さな光を発しているようにも見える。
車両をつなぐ扉が開かれ、男は恒一たちと同じ車両に入ってきた。
小さく揺れたあと電車が止まり、ドアが開かれた。
「はやく逃げないと……」
すでに車両の外に踏み出そうとしている恒一を、ソウタが制する。
「待て。もう少し引き付ける」
「でも、もう……」
「奴は速い。いま広い場所に出たらあいつの思うつぼ」
ミヤが横目で呟いた。
直後、ミヤの手元から黒猫が飛び出した。
まっすぐに男のほうへ駆けていき、その足元に飛び込む。
不意を突かれた男はその場でよろけた。
発車のベルが鳴る。そしてドアが閉じ始めた。
「いくぞ!」
ソウタに促され、恒一たちは電車から飛び降りた。
男から近いドアから黒猫が飛び出してくる。
背後からドアが閉まる音がして、電車がゆっくりと動き出した。
その中に白い手袋があるのを確認し、距離が開いていくのを見ながら、ようやく呼吸が戻ってきた。
恒一は膝に手をつき、しばらく顔を上げられなかった。
さっきの出来事が、現実だったのかどうかさえ曖昧になる。それでも、体に残る震えだけは確かだった。
顔を上げるとミヤが笑っている。その腕の中に黒猫が戻ってきた。
ソウタはただこちらを見ているだけという感じ。
どちらも、さっきのことを特別だとは思っていないような顔だった。
「……最悪だな」
思わずこぼれた言葉に、自分でも苦笑する・
合わない。考え方も、動きも、全部が嚙み合わない。
それでも同じ場所に立っている。その事実だけが、やけに現実的だった。
わけのわからないことをわけのわからないままにするミヤ。ただひたすら攻撃的なソウタ。ときどき人間っぽさを見せる猫。
ーー最悪の相棒。
そう呼ぶしかない関係なのに、完全に拒む気にもならない。
それが一番厄介だった。