テラーノベル
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電車を降りたあとも、朝倉恒一の胸の奥に残ったざわつきは消えなかった。
ホームに立っているだけなのに、背中のあたりが落ち着かない。振り返れば、さっきの車両の奥に残したはずの白い手袋が、まだこちらを見ているような感覚が消えない。
もういない、と頭では分かっている。
それでも、体の方が納得しない。
見上げた先の表示は知らない駅名だった。降りるつもりのなかった場所に立っていることが、遅れて現実になる。
「……ここ、どこだよ」
思わず呟くと、横からミヤの声が飛んできた。
「適当」
恒一は顔をしかめた。
「適当で降りるなよ」
「追われてるときに、行き先決めてる余裕ある?」
ミヤは振り返りもせず歩いていく。
その少し先には、すでにソウタの背中があった。人の流れの中でも歩く速さが変わらない。見失いそうになり、恒一は無意識に足を速めていた。
改札を抜け、外へ出る。
そこで、空気の重さがわずかに変わった。
人も車もある。見た目はどこにでもある町だ。それなのに、何かが噛み合っていない。
通り過ぎる会話も、遠くで鳴るエンジン音も、ひとつひとつは現実なのに、重なり方だけがずれている。
恒一は足を止めた。
「……なんか、変だな」
ミヤが振り返る。
「何が?」
「……分かんねえ」
視線が一点に止まった。駅前のロータリーの向こうに立つ、大きな看板。
それは観光案内の看板だった。
遠目でも形は分かる。だが、近づくにつれて違和感がはっきりしていく。
看板は両面式だった。金属のフレームに板がはめ込まれ、表と裏で内容が違う構造になっている。
その表側に回ったとき、違和感の正体が形を持った。
枠だけが残っている。
本来なら地図や案内が描かれているはずの部分が、きれいに抜け落ちていた。
白い、というより、削り取られた跡のように見える。
「……なんだこれ」
自然と声が漏れた。
「消えてるね」
ミヤが横に並び、軽く言った。
「最初からじゃないよな、これ」
「違うと思う」
恒一は看板に手を伸ばしかけて、止めた。
触れたところで何かが分かるとも思えない。それでも、なぜかためらいが残る。
「この町、変だな」
ソウタが周りをキョロキョロしながら近づいてきた。
「今さらかよ」
すかさず恒一が返すと、ソウタは冷ややかな視線で返してきた。
「種類が違う」
「種類で分けるな」
言いながらも、否定しきれない。
電車の中で感じた危険とは別の、じわじわと広がる違和感。
恒一は周囲を見回した。
人は普通に通り過ぎていく。
看板の前を横切る人もいる。でも、誰も立ち止まらない。目も向けない。
「……おかしくないか」
思わず口に出る。
ミヤが肩をすくめた。
「見えてないのかもね」
「んなわけないだろ」
言いながらも、自分の中の確信が揺らぐ。
こんなものを無視できる方が、おかしい。
足元で黒猫が小さく鳴いた。その音だけが妙に近い。
恒一はもう一度看板を見た。
なにもない空白。
そこに何かがあったはずだという感覚だけが残る。
「……裏、見るか」
口にしたときには、もう足が動いていた。
関わらないつもりだったはずなのに、理由は後からついてくる。
看板の裏へ回ると、光が一段階落ちた。
同じように何もないと思っていた。
だがーー違った。
裏側には紙が貼られていた。雑に張り付けられた一枚の紙。手書きの文字が、にじんでいる。
恒一は顔を近づけた。
「……ここにいた人を、忘れないで」
読み上げた声が、やけに残る。直後、周囲の音が一段下がった。
「……それ、読むなよ」
ミヤだった。
恒一が振り返ると、わずかに強張った表情のミヤがいた。
ソウタはすでに、周囲へ視線を走らせていた。
人はいる。
車も動いている。
なにも変わらない。
それでも、空気が違う。
「来る」
ソウタが言う。
それだけで今後の展開が安易に想像できた。
「……やっぱやばいじゃないか」
恒一がため息とともに吐き出した。
誰も否定しなかった。
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