黒羽は泣いていた。涙が止まらなくて、息が苦しい。目の前で寝ている少年が、昔の兄に似ていたからだ。
「兄さん……」
黒羽の掠れた声が壁に吸収される。
「なんで…ウチを残して…逝っちゃうんだよ…」
視界が滲む。ポロポロと落ちる涙が、黒羽のパーカーにシミを作る。我慢ができず、目の前の少年をギュッと抱きしめる。暖かい、小さな子供。高校生のはずなのに。人形のように整った顔が、兄を連想させて泣けてくる。
「兄さん…、」
黒羽の涙は止まらない。手の中のこさめがぬくもりを持っていることに、かえって心が痛む。兄が逝ったときの冷たさが、どうしても思い出される。
「ごめん…こさめ…」
呟くように謝る。泣き声を聞かれたくない。目を覚まさせたくない。でも、涙が止まらない。こさめが眠っているのが、兄が死んでしまった時に似ていて。
「もう一度…会いたかった…」
涙は次から次へと溢れ出し、黒羽は自分の感情を抑えることができなかった。兄に対する未練と、こさめに対する愛情が交錯し、胸が痛む。
「兄さんは…こさめと似てる名前、だったな………」
黒羽はこさめを抱きしめたまま、静かに泣き続けた。夜の静寂が二人を包み込み、黒羽の涙は止まることを知らなかった。
黒羽がこさめたちにあったその日。黒羽は教室の隅でギターを弾いていた。兄の形見のアコースティックギター。明るくて切ない気持ちになる、儚くも真っ直ぐな音色。そこに重なる黒羽のしっとりした歌声。埃の積もった本棚が、窓から差す光に照らされて真っ白に光っている。この瞬間が、この空気が黒羽は大好きだった。「軽音部」を名乗っているにもかかわらず、弾いているのはアコギだし、部員は一人。去年までは先輩が六人いた。だが全員卒業してしまい、黒羽一人になってしまった。そのせいで部活は廃部寸前。でも顧問はいない非公認だから部費もいらない。黒羽はただ趣味の領域でギターを弾いている。授業にはほとんど行かず、ずっとこの教材室でギターを弾いている。ギターが好きなのだ。それに、このギターをくれた兄のことも。
『いつか、黒羽も弾けるといいな。そうしたら兄さんと、ライブ出ような。』
そう言って微笑んでくれた兄の顔が大好きだった。なのに、兄は黒羽を残して逝ってしまった。黒羽が小学校に入る直前に。癌が見つかって、死んでしまった。兄はもういないと言うのに、黒羽は兄の死を認められなかった。だからこうやってギターで兄を思い出している。兄は最期に、弟にギターを授けた。弾いてくれ、と言われて、幼い黒羽は泣きながら小さい手でギターを弾いた。兄がよく弾いていた曲を。
教材室に流れる穏やかで優しいメロディーが、黒羽の心とこの狭い部屋に深く染み込んでいく。黒羽の優しい声が耳に残り、彼の存在を感じさせる。毎日同じ曲を弾いていても、その一音一音に新たな思いを込めながら、黒羽はギターを弾き続ける。静かな教室の中で、ギターの音色だけが響き渡り、彼の心を慰めていた。
兄の名前は霈(ひさめ)。優しくて温厚な性格の兄。黒羽より十も歳が離れていて、顔もいいし歌も上手かった。高校生三年生の春。兄はとあるアイドル事務所のオーディションを受け、見事合格した。兄の泣き笑いの顔が幼い黒羽にとっては嬉しいものだった。兄は黒羽にこう言ってくれた。
「黒羽もいつか、アイドルになれるよ。兄さん応援する」
その日から黒羽はギターや歌に没頭した。兄とカラオケに行ったり、ライブを見にいったり。でも兄はアイドルの仕事が忙しくて、なかなか遊んでくれなかった。幼い黒羽にとって兄が構ってくれないのは重大な問題だった。
兄が遊んでくれなくなって数ヶ月後。兄は両親と病院に行った。幼い黒羽を残して。帰ってきた母は黒羽に告げた。
「黒羽。黒羽のお兄ちゃんはね、あと三ヶ月…四月になったら…………」
そこで母は泣き出した。兄もその後ろで俯いていた。黒羽は母親をギュッと抱きしめた。母も泣きながら抱きしめてくれた。
その日から兄はアイドルの仕事をやめ、黒羽とたくさん遊んでくれた。
「黒羽、兄さんさ、四月になったらお別れしないといけないんだ。」
その言葉の意味を理解する前に、兄が黒羽をギュッと抱きしめた。昔に比べて硬い気がする兄の腕。白くなった肌。なんとなく予想はしていたが。
「兄さん、病気なんだ。」
それから二ヶ月後。父は仕事、母も仕事で居なかった時。兄が突然倒れた。訳がわからず、黒羽はパニックになる。なんとか兄をリビングに連れて行き、兄の部屋から毛布と枕を持ってくる。泣きながら黒羽は兄の好きなギターを持ってきた。
「お兄ちゃん…死んじゃやだ!起きて!」
兄を揺らすが、兄は動かない。息が乱れ、はぁはぁと繰り返し呼吸する。
「黒羽…兄さんの、名前、呼んで………」
兄の名前。思い出そうとするが、出てこない。お兄ちゃん、と繰り返し呼ぶが、兄は首を横に振った。
「兄さんの名前は、ひさめ…だよ。」
そう言って霈は咳き込んだ。黒羽は泣きながらコップに水を入れ、こぼしながら兄に飲ませた。兄は微笑むと、黒羽を抱きしめた。
「くろ、は…ギター、弾いて……」
黒羽は頷くと、自分の身長ほどある大きなアコースティックギターを抱えて、弾き始めた。まだ指が届かない。泣いているせいで上手く弾けない。
「おにい、ちゃん、、しんじゃう、の?」
ギターを弾きながら尋ねる。兄はもういいよ、と言った。黒羽はギターを弾くのをやめ、兄に抱きついた。
「おにいちゃぁああん!!!!しなないで!!」
霈は黒羽の髪を撫でながら言った。
「黒羽。ひさめは…くろはのお兄ちゃんになれて、しあわせ、だった、よ___」
兄の目から光が消え始める。
「くろは、も、お兄ちゃんのおとーとになれ、て!たのし、かった!!!!」
兄は微笑むと、最期に言った。
「またね…くろは…」
兄の目が完全に閉じると、黒羽はその場に泣き崩れた。心の中に空いた大きな穴を埋めることはできなかった。それでも、兄の言葉を胸に、黒羽は前を向こうと決めた。それに、兄はさようなら、を言わなかった。
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