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その人は、私のことを見ていた。
夕暮れに染まる海を背にして、静かに立っている。
「君にも聞こえるんだね。鯨の唄が。」
その一言だけが、何度も頭の中で繰り返される。
私はしばらく言葉を失った。
「……今、なんて……?」
やっと声を絞り出すと、彼は少しだけ目を細めた。
「聞こえたんだろ。」
その声は穏やかで、まるで当たり前のことを話しているようだった。
「さっきの唄。」
波が静かに岸へ寄せる。
私は無意識に胸元を握りしめた。
「……あなたにも、聞こえるの?」
問いかけると、彼は小さく頷く。
「うん。」
それだけだった。
その短い返事だけで、胸の奥が少し軽くなる。
今まで誰にも話せなかったこと。
話したとしても、「気のせいだよ」と笑われて終わること。
それを、この人は否定しなかった。
海風が制服の裾を揺らす。
夕日はいよいよ水平線へ沈もうとしていた。
「名前。」
不意に彼が口を開く。
「まだ聞いてなかった。」
「あ……。」
そういえば、そうだ。
私は小さく息を吸った。
「海瀬由良(うみせゆら)。」
彼はその名前を一度だけ口の中で繰り返す。
「……由良。」
まるで大切なものを確かめるように。
「俺は、雲川空雅(くもかわくうが)。」
雲と、空。
名前まで海に似合う人だな、とぼんやり思った。
「同じ学校。」
「えっ?」
「二年三組。」
私は思わず目を見開く。
「私も……二年三組。」
「知ってる。」
「え?」
「教室で何回か見かけたことある。」
私は記憶をたどる。
でも、思い浮かばない。
こんなに印象に残る人なら、一度くらい気づいてもよさそうなのに。
空雅は苦笑した。
「俺、あんまり目立たないから。」
「……そんなことないと思う。」
思わず本音がこぼれる。
空雅は少し驚いたように瞬きをして、それから小さく笑った。
その笑顔は、夕暮れの光みたいにやわらかかった。
風が吹く。
二人で同じ海を見つめる。
不思議だった。
初めて話す相手なのに、沈黙が苦しくない。
むしろ、波の音を一緒に聞いているだけで十分だった。
「由良。」
「ん?」
「明日も来る?」
私は海を見る。
夕暮れになると、海に呼ばれる。
その感覚は、今日も変わらない。
「……たぶん。」
「そっか。」
空雅はそれ以上何も言わなかった。
ただ、安心したように海へ視線を戻す。
その横顔を見ていると、ふと一つの疑問が浮かぶ。
「空雅くんは……」
言葉を選びながら尋ねる。
「どうして、海に来るの?」
少しだけ間が空いた。
空雅は水平線の向こうを見つめたまま、静かに答える。
「好きだから。」
その答えは、とてもシンプルだった。
だけど、その声には_____
好き、だけではない何かが混じっているように聞こえた。
波が、防波堤へ静かに寄せる。
どこか遠くで、カモメが一羽鳴いた。
二人の間には、まだ知らないことの方がずっと多い。
それでも、夕暮れの海は少しだけ昨日より近く感じられた。
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コメント
1件
いいなあ…。夕焼けの海をバックに、同じ「鯨の唄」が聞こえる同士の出会い、すごく素敵な場面でした。特に「好きだから」の答えの中に別のものが混じってるように感じた由良の気づき、そこにぐっときました。まだ何も知らない二人だけど、沈黙が苦しくない距離感が、これからどう深まっていくのか楽しみです。名前の「雲と空」の読みも洒落てるなあと。