テラーノベル
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背後で官吏の声が弾ける。「清朗殿!」追いかけてくる足音。でも、止まれない。
息が苦しい。浅い。速い。胸が焼ける。
「殿下……殿下!!」
掠れた声が、また出る。声帯が痛い。痛いのに、声が止まらない。
帝辛が動いた。一歩、前へ。
そして、立ち止まる。
清朗を見ている。その顔が、歪んでいる。歪んでいるのに、優しい。
優しいのが、いちばん残酷だった。
清朗は手を伸ばした。届く距離じゃないのに。
伸ばした瞬間。
背後から腕を掴まれた。官吏だ。二人だ。
手つきが、乱暴だった。「清朗殿」と呼びながら、丁寧さがない。王太子府に仕える者への所作じゃない。始末する者への所作だ。
清朗はそれを感じた。感じて、胸の奥が冷えた。
怒りじゃない。確認だ。
(……ああ、そうか)
もう、そういう扱いになったのか。
清朗は振りほどこうとした。でも力が入らない。震えが骨の中から出てくる。
「離せ……」
声が割れる。
「お乗りください、清朗殿」
官吏の声は変わらない。冷たい。事務の声だ。感情がない。感情を持つ必要がない相手への声だ。
清朗は足を突っ張った。でも引きずられる。靴の底が石を擦る。
帝辛が見ている。その目が痛みに染まっている。痛みに染まっているのに、来ない。
(……来ないんじゃない)
(来られないんだ)
清朗の膝から力が抜けた。官吏が無理やり立たせる。
清朗は抵抗をやめた。
やめた瞬間。官吏の手つきが、少しだけ緩んだ。緩んだが、離さない。
それが全部だった。
清朗は引きずられた。馬車の方へ。
扉が開いている。暗い中が、待っている。
「乗ってください」
清朗は乗った。自分の足で。引きずられたまま終わるのは、嫌だった。
それだけは、自分で決めた。
扉が閉まる。
音が重い。その音で、世界が区切られた。
清朗は座席に倒れ込んだ。
手が震えている。止まらない。
馬車が動き出す。揺れる。ゆっくり。確実に。
幌の端を、指で押さえた。冷たい。
外を見た。
帝辛が、まだそこにいる。遠ざかっていく。小さくなる。
清朗は幌の布に額を押し当てた。
見えなくなるまで、目を離さなかった。
見えなくなった。
清朗は目を閉じた。
手が、震えている。止まらない。
(縫季)
名前を思うだけで、胸の奥がざわつく。
憎しみが、喉の奥までせり上がる。飲み込む。噛む。飲み込む。
違う。俺が欲しいのは報復じゃない。
殿下の笑みだ。
縫季。お前が殿下のそばにいるなら。
どうか、笑わせてくれ。
俺みたいに、無理に笑わせなくていい。香の力で整えるんじゃなくていい。ただ、殿下の目がふと緩む瞬間を、守ってくれ。
俺はもう、守れない。
(……頼む)
声にしない。声にしたら、また崩れる。崩れる余裕が、もうない。
清朗は膝の上で拳を握りしめた。
震えが、止まらない。
馬車は進み続けた。遠く。遠く。
帝辛から離れていく。
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
崩れる音はしない。
だが、何かが薄くなった。
清朗には分からない。だが確かに、何かが薄くなった。
◆
天の端で、その変化を見ている者がいた。
霧のように見えるが、霧ではない。記録の密度が落ちた層だ。
九尾は、その縁に立っていた。
透灰の瞳が、下を覗く。殷の方角。
尾が九本、ゆっくりと空を撫でた。
「……太くなった」
声は小さい。だが層は確かに応えた。
一つの線が、痩せた。別の線が、太る。
王の隣にいた、笑う者。
その線が、薄れている。
九尾は薄く笑った。
喜びではない。確認しただけの顔だ。
「邪魔が減った、か」
足場が戻る。降りられる。
九尾は掌を開いた。
指先が層に触れる。
冷えが骨に走る。
「……殷に降りる」
尾がわずかに揺れる。
霧が足元を包んだ。
九尾は一歩、踏み出した。
落ちるのではない。
記録の薄い方へ、滑るだけだ。
霧の中で、九尾は呟いた。
「……時期は来た」
その姿は、音もなく消えた。
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#ヒューマンドラマ
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コメント
1件
うわあ……読んでいて胸が締め付けられました。官吏の手つきの変化が「始末する者への所作」だと清朗自身が気づく瞬間、あそこが特に痛かった。「来られないんだ」と理解して抵抗をやめる潔さと、最後だけは自分の足で乗るって決めた矜持が、余計に切ないです。九尾が「太くなった」と呟く場面も、物語の層が厚くなる感じがしてゾクッとしました。設定のディテールが効いてますね。続き、気になります。