テラーノベル
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――殿下。
声は、いつもの調子だった。
戸の向こうから、軽く響く足音。少し早足で、しかし急ぎすぎない。この時間に、必ず聞く音。
「起きてますよね?」「もうすぐ朝議ですよ」
返事を待たずに続く、その声。
帝辛は、夢の中で小さく息を吐いた。ああ、いつもの朝だ、と。
戸が開く。差し込む朝の光。逆光の中で、清朗が笑っている。
「今日も忙しいですよ、殿下」
少しだけ寝癖の残る髪。気づけば、いつの間にか近くまで来ていて、何も言わずに衣の合わせへ手を伸ばす。
「……また、ずれてます」
指先が布を整える。慣れた所作。何でもない日常。
帝辛は、胸の奥が緩むのを感じた。
――大丈夫だ。
そう思った、その瞬間。
清朗の手が、止まった。
笑顔が消える。光が、落ちる。
ゆっくりと顔を上げた清朗の瞳は、濡れてはいないのに、ひどく悲しそうだった。
「……殿下」
声が、低くなる。
「どうして」
一拍。
「どうして、引き止めてくれなかったんですか」
帝辛は、言葉を失った。
清朗は笑わない。責める声でもない。
ただ、静かに。傷ついたままの目で、見つめてくる。
「俺、待ってました」
淡々と告げる。
「殿下が、止めてくれるのを」
「……冗談だって」
「そう言ってくれるのを」
指先が、襟から離れる。
その距離が、ひどく遠い。
「なのに」
清朗は、少しだけ首を振った。
「殿下は、何も言わなかった」
その一言が、胸に落ちた。
――違う。――言えなかった。
そう叫ぼうとして、声が出ない。
清朗の姿が、朝の光の中で滲む。輪郭がほどけていく。
「じゃあ……」
遠ざかる声。
「もう、いいですよね」
次の瞬間。
帝辛は、喉に詰まった息を吐き出すようにして、ゆっくりと目を開けた。
背中に、冷たい寝汗が張り付いている。
帝辛は、無意識に耳を澄ませた。
呼びかける声は、どこにもなかった。
朝。
喉が乾いている。掌に、爪の跡が残っていた。いつの間に握り締めたのか、指先が痺れている。
――夢だ。
そう思ったのに、胸の奥の圧だけが消えない。
静かだ、と最初に思う。
――静かすぎる。
本来なら、この時間にはもう足音がある。廊下を急ぐ、少し慌ただしい足取り。戸の前で一度立ち止まり、控えめに、しかし遠慮なく響く声。
「殿下、起きてますよね?」
返事を待たず、「もうすぐ朝議ですよ」と続く、あの声。
帝辛は寝台の上で、指を動かした。
……来ない。
その事実が、遅れて胸に落ちる。
ああ、と息が漏れそうになって、帝辛は無意識に唇を結んだ。
(……そうか)
清朗はいない。
病気養生。そう報告は受けている。正しい判断だとも、理解している。
理解している、はずなのに。
帝辛は上体を起こし、衣に手を伸ばした。自分で整えるのは久しぶりだ。
帯の位置を確認し、結び目を作る。一度で決まらず、指が止まる。
――以前なら、ここで笑われていた。
「殿下、そこ逆です」「ほんとに不器用ですね」
思い出した瞬間、胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。
帝辛は深く息を吸う。
大丈夫だ。王太子は、これくらいで揺らがない。
そう言い聞かせるように、衣の皺を整え、背筋を伸ばす。
水鏡に映る顔は、いつも通りだ。穏やかで、落ち着いていて、誰にも不安を与えない王太子の顔。
帝辛は立ち上がり、静まり返った回廊へ一歩踏み出した。
(今日も、やるべきことは多い)
そう思いながら、帝辛は自分でも気づかないうちに、廊下の端を一度だけ振り返っていた。
◆
中庭。
朝霧が、低く溜まっている。
花壇の縁に人影があった。いつも、清朗がいた場所。桶を抱え、地を静かに踏みしめている。
縫季だ。
縫季は柄杓を取り、ゆっくり水を落とした。葉を打たないように。白い花弁を傷つけない角度で。
その所作は、妙に正確だった。
――覚えたのだろう。清朗のやり方を。
帝辛は足を止めた。
霧の向こうで、柄杓を持つ手が動く。慎重で、静かで、無駄がない。
コメント
1件
第39話、読み終えたよ……。夢の中の清朗が「どうして引き止めてくれなかったんですか」って言うシーン、めちゃくちゃ胸に来た。現実の帝辛が自分で衣を整えて、帯がうまく結べなくて「以前ならここで笑われてた」って思い出すところ、静かに痛いなって思った。縫季が清朗のやり方を覚えて水をやってるのも、何も言わないけど確かに存在してる喪失感が伝わってくる。続き、すごく気になる……!
#中華ファンタジー
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