テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
次の日の午後、花音は客室階の廊下を一人で拭いていた。
仕事自体は単純だ。
同じ動きを繰り返すだけで、余計なことを考えずに済む。
——はずだった。
背後から、足音が近づく。
振り向く前に、それが誰か分かってしまった。
「無理、してませんか」
穏やかな声。
朝と同じ、少し抑えた調子。
花音は、布を持つ手を止めた。
「……大丈夫です」
そう答えたが、自分でも嘘だと分かる声音だった。
彼は、数歩分の距離を保ったまま立っている。
近すぎず、遠すぎず。
まるで、測ったかのような位置だった。
「周りが、少し静かでしょう」
「……はい」
「今は、それでいいんです」
彼はそう言って、廊下の先を見た。
「皆、どう接すればいいか分からないだけですから」
「疑っている、というより……戸惑っている」
「同じことじゃないですか」
花音が言うと、彼は小さく笑った。
「確かに」
一瞬の間。
「でも、あなたが気に病む必要はありません」
その言い方は、昨日と同じだった。
それなのに、どこか違う。
「……どうして、そんなに言い切れるんですか」
問いかけると、彼は少しだけ考える素振りを見せた。
「ここにいると、分かることがあります」
「何が、ですか」
「……疑いは、理由がなくても生まれる」
「だから、理由があるように見える人が、選ばれる」
花音は、布を強く握った。
「それが、私?」
「“あなた”である必要はなかった」
彼は、はっきりそう言った。
「たまたま、条件が重なっただけです」
条件。
兄の死。
霊媒師の言葉。
“はな”という音。
「……私、ここに来るべきじゃなかったのかもしれません」
思わず、そう零れた。
すると、彼の声が、少し低くなる。
「それは違う」
断定だった。
「来た意味は、あります」
「意味……?」
「ええ」
彼は、一歩だけ距離を詰めた。
「少なくとも——私は、そう思います」
花音は、瞬きをした。
(今……)
聞き間違いだろうか。
この人は、いつも自分のことを、
「僕」と言っていたはずだ。
一瞬の沈黙のあと、彼は何事もなかったように続ける。
「……この屋敷は、変わらないようでいて」
「外から何かが入ると、必ず歪みが出る」
「歪み?」
「ええ。良くも、悪くも」
彼は、視線を花音に戻す。
「あなたは、その歪みです」
「だから、怖がられる」
それは、慰めだったのか。
それとも、別の名前を与えられただけなのか。
「でも」
彼は、声を和らげた。
「歪みがなければ、壊れもしない」
「ここは、そうやって保たれてきた場所ですから」
花音は、喉の奥が冷えるのを感じた。
「……それって」
言葉にしようとして、やめた。
彼は、それ以上を説明しなかった。
代わりに、こう言う。
「今日は、もう上がってください」
「これ以上、人の視線に晒れる必要はない」
「でも、仕事が——」
「私が……いえ、僕が、代わりに伝えます」
一瞬の言い直し。
花音は、今度こそはっきりと違和感を覚えた。
(やっぱり……)
けれど、指摘する勇気はなかった。
彼は、変わらぬ穏やかな表情で立っている。
いつも通りの執事。
いつも通りの“味方”。
「……ありがとうございます」
そう言うと、彼は満足そうに頷いた。
「無理はしないでください」
「あなたは、まだ守られる側ですから」
その言葉を残し、彼は廊下の向こうへ歩いていく。
背中を見送りながら、
花音は、胸の奥に残った引っかかりを確かめる。
“守られる側”。
それは、
誰が決めた立場なのか。
そして——
さっき、一瞬だけ聞こえた、
彼の一人称。
聞き間違いだと思うには、
妙に、耳に残りすぎていた。
廊下には、また静けさが戻る。
けれど、花音は知っていた。
疑われているのは、自分だけじゃない。
——少なくとも、
彼自身が、何者であるかについては。