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その日は、朝から屋敷の空気が違っていた。
いつもより早く、玄関ホールに人が集められる。
理由は告げられていないが、執事長の動きが慌ただしい。
それだけで、何かが起きると分かった。
正午を少し回った頃だった。
玄関の重厚な扉が、
内側からではなく――外から、開いた。
軋む音は低く、長い。
誰かが息を呑む気配がした。
最初に足を踏み入れたのは、見知らぬ男だった。
背は高くないが、姿勢が妙に整っている。
年齢は三十代半ばほど。
無地のコートに、使い込まれた革靴。
視線だけが、やけに鋭い。
――探偵だ。
噂に上っていた人物だと、すぐに分かった。
だが、
その男以上に視線を集めたのは、
一歩遅れて現れた人物だった。
影の中から、静かに姿を現す。
細身で、背が高い。
黒に近い濃紺の服を、過不足なく着こなしている。
白い手袋に、手には一本の杖。
顔立ちは思ったより若い。
四十代前半だろうか。
血色は薄く、目元の彫りが深い。
芸術家と聞いて想像する通りの、どこか神経質な印象。
だが、何より印象に残ったのは――目だった。
こちらを見ている。
確かに、見ているはずなのに、
誰一人、見ていないような視線。
「……あれが」
誰かが、喉の奥で呟いた。
俺も、初めて見る。
この屋敷の主を。
執事長が、一歩前に出る。
「お帰りなさいませ」
その声に、男はわずかに頷いた。
そして、淡々と名乗る。
「この館の主だ」
一拍。
「北島 龍也(きたじま・りゅうや)」
その名を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
名前だけで、空気が変わる。
長く不在だったはずなのに、
屋敷が“本来の形”に戻ったような感覚。
「しばらく、屋敷を空けていた」
「不便をかけたな」
声は低く、感情が抑えられている。
命令口調ではない。
だが、逆らうという選択肢が浮かばない。
隣で、探偵が一歩前に出て会釈する。
「同席を許可していただいた、今回の件を調べる者です」
北島は、そちらを一瞥しただけで、
興味を失ったように視線を戻した。
「説明は、簡潔に」
探偵が応じる。
「この屋敷で起きている“事故”について、外部の立場から、事実のみを確認します」
その言葉に、
執事たちの間に、かすかなざわめきが走る。
事故。
この屋敷の中で、
外の人間がその言葉を使った。
北島の口元が、わずかに歪んだ。
笑みではない。
「好きにしろ」
「ただし——」
杖が、床に軽く触れる。
「私の許可なく、
この館の過去を掘り返すことは許さない」
探偵は、臆する様子もなく頷いた。
「承知しています。ですが、過去はすでに、この屋敷に残っています」
一瞬だけ、
北島の目が細まった。
見逃しそうなほど、ほんの一瞬。
「……そうか」
それだけ言うと、
彼は執事長へ視線を移した。
「全員、持ち場に戻れ」
「必要な者だけ、後で呼ぶ」
命令は短い。
誰も逆らわない。
解散する流れの中で、
俺は一度だけ、振り返った。
玄関ホールの中央に立つ二人。
探偵はすでに、
床や壁、階段の配置を観察している。
一方で、北島は。
ただ立っているだけなのに、
屋敷そのものが、
彼の存在に従っているように見えた。
(……この人が)
(すべてを、知っている)
そう、直感した。
そして同時に、
夜の廊下を歩いていた“彼”の姿が、
脳裏をよぎる。
灯りをつけなかった理由。
言葉の微妙な揺れ。
一人称の、わずかなズレ。
もしこの屋敷が人を選ぶのだとしたら。
選ばれているのは、
主人なのか。
それとも——
この館に、
最も自然に溶け込んでいる、
誰かなのか。
答えは、
まだ、闇の中にあった。