朝の商店街は、夏の匂いでいっぱいだった。焼き立てのパンの甘い匂いと、氷屋さんから漏れてくる冷たい空気、店先の風鈴の高い音。「おはようございます!」
私は、開店したばかりのパン屋さん「青浜ベーカリー」に飛び込んだ。目的はただひとつ——曜日限定・数量限定の“塩メロンパン”。表面はカリッ、内側はふわっ、暑い日にちょうどいい塩気があとを引くという、噂の一品だ。
ガラスケースの奥、丸くてかわいい翡翠色。残りは五つ。
「ひとつください!」
店主のおじさんは笑って、いつもの紙袋にやさしく入れてくれた。袋はほんのり温かい。
「落とさないようにね、美空ちゃん」
「はいっ!」
私は胸に抱えるようにして店を出た。信号待ちの間に袋の口をのぞくと、砂糖の結晶が朝陽でキラッと光った。さっとスマホを出してパシャ。写真部魂がむずむずする。
角を曲がると、家の前の門扉から白い中型犬——我が家の愛犬“ソラ”が、全身で喜びを表現しながら飛び出してきた。
「ダメダメ、ソラ、パンは食べられません!」
ぴょーん、と伸びる前足。うるうる目。しっぽブンブン。私は慌てて袋を頭上に掲げる。
「今度散歩の時に氷あげるから、ね?」
首をかしげるソラに「約束だよ」と言い聞かせ、私は全速力で学校へ向かった。
青浜中の校門をくぐると、海風がふわっと制服の襟を揺らす。こんなに暑いのに、ここだけは涼しい。教室に入るとすでに数人が来ていた。
「おはよー!」
「おはよ、美空」
陸上部の高梨彩葉が、机に肘をついてニヤリと笑う。
「それ、噂の限定パンだろ。匂いでわかる」
「嗅覚どうなってるの、いろは……」
写真部の椎名瑠衣も近づいて、袋の口を覗き込んだ。真面目な瑠衣はこう見えて、甘いものに目がない。
「きれい。表面の網目、完璧だね。撮らないの?」
「もう撮った! でも、放課後まで我慢するの。写真部の部室で、優雅に紅茶と一緒にいただく!」
私は大切に机の中へ袋をしまい、きゅっとフタを閉めた。念のため、カバンのストラップでフタが開かないよう固定もする。完璧。パンセキュリティ。
ホームルーム。国語。数学。英語。
「It’s…a…mel…on…」
素直に口から出た単語にクラス全員がちょっと笑って、私は両手で顔を覆った。
(だって頭の中にメロンパンが……)
後ろの席の成瀬悠真が小声で突っ込む。
「それ、もはや条件反射」
隣の席の桐谷蒼介は、相変わらずクールにノートを取りながら、口元だけでくすっと笑った。私の頭の中は、とうに“砂糖の網目”でいっぱいだ。
昼休みは、購買の焼きそばパンでつないだ。お腹は満たされた。でも、“限定パン”は別腹。四時間目が終わるたび、机の中をつい確認する自分を律しつつ、私は午後の授業も無事にやり過ごした。
そして放課後。
「さあ! 待ちに待ったご褒美タイム!」
私は机の中に両手を差し入れ——固まった。
袋が、軽い。
開いている。
中、空っぽ。
「……え?」
数秒遅れて、頭の中にアラームが鳴る。
「えええええええええ!?」
教室中の視線がこちらに集まる。私は袋を逆さにして振ってみた。砂糖の結晶が二粒、乾いた音を立てて机に落ちる。
「美空、落ち着いて」
瑠衣がハンカチを差し出し、彩葉は机の周辺を見渡す。
「床に落ちた形跡は……ないな。匂いも薄い」
「匂いで調べるのやめて」
私は震える指先で机のフタを開け閉めしてみた。留め具は緩んでいない。カバンのストラップも、……あ、外れてる。
「この状態から、パンが独り歩きすることはない」
「しないよ!」
「じゃあ誰かが——」
「おーい、美空ァ」
教室の後ろのドアから、悠真が顔を出した。片手で何かを持っている。
丸い。
カリッとした表面。
塩の結晶。
——私の、パン。
もう片方の手の先、廊下には蒼介。彼の手にも、半月状に割られたパン。
「ちょ、ちょ、ちょっと! それ、私の!」
「いや誤解するな、事情がある」
悠真はパンを器用に片手だけで掲げ、早口で言い訳を始めた。
「掃除の人が通ったとき、風で机のフタがパタンって開いたんだよ。で、袋ごと落ちて、コロコロって廊下へ。俺はヒーローのようにダイブしてキャッチ。したら袋、破けてな。中身だけふわっと着地。で、二つに割れて——蒼介が拾った」
「……食べたのは?」
「いい香りしたから、つい。……半分だし?」
「“半分だし?”じゃない!」
蒼介は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまん。『落ちたものを拾って食べる』は、もったいない精神だと思って……」
「五秒ルールとか適用しないの!」
私は両手を腰に当て、ぷるぷる震えた。怒りというより、泣き笑い。
「……でも、無事だった? 砂とかついてない?」
「すごくおいしかった」
「だからぁ!」
いつのまにか教室の空気は、事件現場というより公開裁判。
「判決:明日、全員でパン屋に並ぶ!」
彩葉が宣言し、教室中から「おー!」と拍手が起きた。
私は半泣きで笑った。
「……責任取ってよね、ホントに!」
翌朝。
まだ陽がやわらかい時間、青浜ベーカリーの前には、すでに数人の列。私たち五人——私、瑠衣、彩葉、悠真、蒼介——も並んだ。
「開店一番で来るの初めてだな」
「限定パン、今日は十個だって。間に合いそう」
店主のおじさんがシャッターを上げると、パンの甘い香りがふわっと広がった。
ついに、私の番。
「塩メロンパン、五つください!」
「はいよ、美空ちゃん。……昨日は災難だったね」
え、昨日の話、もうパン屋さんにまで?
「教頭先生がね、夕方に来て話してたよ。『校内でパンの争奪戦があったらしい』って」
どんな伝わり方してるの、それ。
紙袋は二重にしてくれた。おじさんの気遣いがしみる。
「今日は落とさないようにな」
「きゅっと結びます!」
学校へ向かう道、私は袋を抱えて歩いた。小走り厳禁。段差注意。ソラもいない(家で朝寝中)。
教室に着いてすぐ、私は机の奥——ではなく、写真部の部室の鍵を借りてロッカーに保管した。
「パン・セキュリティ・レベルMAX」
「用語のセンス」
「今日こそ、放課後にみんなで食べるんだ……!」
授業中、意外にも私は落ち着いていた。心の中のパン熱は、もはや達観の境地。昨日の教訓が生かされている。
そして、放課後。
私は胸に手を当て、写真部の部室のドアを開けた。ロッカーの一番上段。紙袋は、そこに——あった。
「いたぁ……!」
私は両手で大事にテーブルへ運び、友だちの前に広げた。
「いただきますの前に、一枚だけ」
瑠衣がスマホを取り出す。彩葉はフォークと紙皿を配る。悠真と蒼介は、正座して待機。
「それじゃあ——」
ガタン。
部屋の窓が、午後の海風でふいに開いた。カーテンがはためき、テーブルの上の紙を一枚さらって床へ。
「セーフ、セーフ」
彩葉が拾い上げる。私は深呼吸して、袋の口を開いた。
砂糖の結晶。
翡翠色の丸。
五つ、きれいに並んでいる。
そのとき。
ドアが勢いよく開いた。
「おお、写真部諸君! 文化祭ポスター作成の相談——」
社会科の田淵先生(愛称:タブチー)が、両手にポスター用紙を抱えて登場。
風。
紙。
バサァァァァ。
テーブルが紙に覆われて、視界が真っ白——
「キャー!!」
「ご、ごめんごめん! 今すぐ片付ける!」
慌てて紙の山をどかす。パンは——
……無事。
「よかったぁ……っ」
全員で心臓を撫で下ろすと、タブチーは頭を下げて笑った。
「緊急文化祭会議は、三分で終わるから! 終わったら先生も——」
「ダメです」
「はい」
三分後。
改めて、私たちは席に着いた。
「では——いただきます!」
かじる。
カリ。ふわ。
ほのかな塩気が、甘さを引き立てて、口の中で夏が広がる。
「おいしい……っ」
「外サク、中しゅわ」
「塩がいい仕事してる」
悠真と蒼介も、今回はゆっくり味わっている。
「昨日の五秒ルールとは雲泥の差」
「だからそれやめよ」
幸せな沈黙。
そのとき、窓の外から「ワン!」と元気な声。
「え、嘘。ソラ?」
部室の窓の外、校庭の端で、白い犬が尻尾をちぎれそうに振っている。
「なんで!?」
「美空、今日は家の門閉めて来い」
悠真が笑い、蒼介が肩をすくめる。
「……あー、朝、お母さんが庭掃除してて門開けっ放しかも」
「わぉ、パンの匂いを追って学校まで?」
「天才……いや、食いしん坊だね」
みんなで窓に集まると、ソラは「ウフフ」という顔で舌を出した。
私は最後のひと口をじっと見つめ、そっと手を伸ばした。
「……ソラ、これはダメ」
“キラキラおねだり目”
「ちょ、ちょっとだけ」
「負けた」
私は最小の欠片をちぎり、窓から外へ。ソラは見事なキャッチを決め、満足げにモグモグした。
「よかったね、ソラ」
「犬に塩分って大丈夫?」
「今日は特別。ほんの少しだけ」
事件は、こうして平和に終わった——はずだった。
数日後。
昼休み、私はふと、例の机の“パンセキュリティ問題”を思い出した。留め具、ちょっと緩い。
「ここ、ネジ締めたほうがいいな……」
工具室の鍵を借りに行こうとして、私の腕を彩葉がつかむ。
「美空、もしかしてまた限定パン買ってる?」
「……買ってません」
背中に隠していた紙袋が、カサッと鳴った。
「正直」
「いや、これは家用! ソラ用! みんなの用!」
「どれが本当?」
「全部……」
その日の放課後。
「はい、審議の結果——」
瑠衣が黒板に「パン事件・再発防止策」を書いた。
1)机の中に食べ物を入れない。
2)部室ロッカー使用時は、鍵の二重チェック。
3)窓・ドアは風対策を。
4)ドア突入型教師対策として、田淵先生の足音がしたら『かくれんぼモード』。
「4番はおかしい」
「実効性がある」
「あるの?」
笑い声が、夕方の教室に広がった。
私は紙袋から、小さな袋を一つ取り出す。中にはミニサイズの塩メロンパンが五つ。
「今日は、これ。小さいから、落ちても痛くない」
「落とす前提」
「備えあれば憂いなし」
みんなが目を丸くして笑う。
私はふうっと息を吐いて、思った。
——結局、パンは口に入ってしまえば、幸せの種になる。
落ちても、半分になっても、ちょっと分けても、笑い話が増えるだけ。
大事なのは、みんなで「おいしいね」って言えること。
そして、また明日も誰かと一緒に並んで、今日はどれにしようって迷う時間。
帰り道、商店街の角で曲がると、ソラが私に気づいて全力ダッシュしてきた。
「ただいま。今日はちゃんと、君の分もあるよ」
ソラはお座りして、真剣な目。私はちっちゃい一欠片を指先でつまみ、鼻先へ。
「よし!」
パク。
満足げにしっぽを振るソラ。
私は空を見上げる。夏の青。風鈴の音。パンの甘い匂い。
胸の中で、まだ少しだけ“網目模様の幸福”がカリッと鳴った。
——久遠美空のパン事件、これにて一件落着。
次の限定、何だろう。今度は、落とさない(たぶん)。