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「眠り」
『あの化け物を殺して』
私はその日記を読み終えて、全身に冷や汗が出てきているのがわかった。身体は芯から震えて、まるで真冬に半袖で外に放り出されたみたいに。
その日記を悪魔の手帳だと、私は思った。私の知らない私の悪夢を見せる化け物の手帳。この日記に書かれたことは決して事実なんかじゃない。ただの嘘。嘘でしかない。
だから気にしなくていいんだ。そう思っていても、手の震えは止まらなかった。……だって。私の記憶の多くは霞がかっていて、それが絶対嘘だなんていえなかった。
そして、話を聞いていると脳裏に何かがよぎりそうになるのだ。私の中には何かが欠けてる。
最後に、勢いよく書きなぐられたであろう文字も恐ろしくて、私はそのまま日記を投げた。
「こんな物、嘘!! それにあんなものを殺すなんてできるわけない!」
投げられた勢いのまま、落ちていく日記。それがスローモーションのようにゆっくりと見えた時、頭の中に。
――ジジジッッ
『陽奈ちゃん、凄いわ。すごく頑張ったのね』
『陽奈が一位よ! お父さん。ほら、すごいすごい!」
――ジジジッッッッ
『陽奈。何なのこれ、信じられないわ。この間よりも模試の成績が十位も下がってる。もっと頑張りなさいよ』
『そうじゃないわ!! どうしてこんなこともできないの。本当にそれでも私の娘?』
――ジジジッッッッッッ
『陽奈! あなたがしっかりしないから私が怒られるじゃない』
『陽奈、あんたのせいで』
――ジジジッッッッッッッッ
『陽奈ちゃん、ごめんね。こんなお母さんで……。ごめん、ごめんなさい』
『陽奈ちゃん、私を許して』
ーー溢れる映像。
「いやああぁぁっ!!!! いや! いや! 見せないで、それ以上」
絶叫した。脳裏を巡る、私の知らない出来事。優しかった母がどんどんどんどん壊れていく姿。
そして、いろんな負の感情が私を染めていく。母や父に虐げられる哀しみ、苦しみ、恐怖。……そして憎しみ。身体にこびりついた青あざや治りかけのあざが、どんどんと痛みを訴えてきた。自然と目じりからは涙があふれる。
こんなの知らない。しらない、しらないよぉ。
頭を大きくふり、生徒会室の床にガンガンとぶつける。全部、夢。夢なんだ。だから、私早くここから起きて。目を覚まして。
「いやだ、いやだ。起きて起きて起きて起きて起きて起きて起きて起きて。目覚めて!!!!!」
どれだけ頭をぶつけても、どれだけ叫んで、目を覚ますように言っても。
私はこの悪夢から抜け出せない。
――ゔ、あああああ。あああ、あぁぁ。
言葉にならない。わんわんと破裂しそうな激しい感情に侵されていく。……ああああああ。
『あの化け物を殺して。そうすれば、ここからきっと出られるわ』
頭の中に響く声。それはこの悪夢から抜け出す方法を私に教えた。
出られる……?
出られるの。混乱した私にその声は、砂漠をさまよって、やっと見つけたオアシスの泉のような救いだった。たとえ、それが本当は蜃気楼だったとしても、私はそれにすがるほかなかった。
「………化け物を、殺せば、ここ、から、出られる」
私はここから出なきゃいけない。こんな夢から早く抜け出して、これが嘘だって否定しなきゃ。
あの化け物に対する恐怖よりも、この世界であの悪夢を見せられる恐怖に私は動かされた。
はやく、はやく、はやく。
私は地面に落ちた彫刻刀をつかみ直して、その場に立ち上がった。
『そう。ちゃんと、殺して』
ぼんやりとした頭の中で、誰かがそう、言った。
*
私は家に戻った。世界がずっとぼやけて見えて、頭の中は朦朧としたまま。
でも、この彫刻刀を振り下ろせれば、あいつを殺せればすべて終わるんだ。そんな風にぼーっと考えていた。
ふらりふらりと歩いて、廊下からリビングに入る。電気が消されていて何も見えなかった。あいつはどこ。きっと家に戻っているはず。
私は無意識にリビングの電気をつけた。やはり、電気はジラジラと何度か揺れてから、点灯する。その下には、私が目覚めた時と同じように……。
「人形。お人形がある」
スーツを着た男の人の人形、エプロンを付けたその人形。それはまるで、お父さんとお母さんみたい。そう思って、ふと我に返ろうとした。
その時。
「Vuaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!」
あの化け物の声がした。ゆっくりとそちらに向かっていく。
恐怖なんてとっくに消えていた。この悪夢から目が覚めるのなら、私はあの化け物ですら恐ろしいとは思わなくなっていた。
リビングの奥。キッチンの中央にあいつは立ちすくんでいた。背後の仮面も目を瞑っている。
チャンスだ! そう思った私は、勢いよくキッチンに走った。
両手で彫刻刀を化け物に突き刺す。その胸元に。彫刻刀はするっと、その胸元に吸い込まれていった。あぁ、殺せるんだと思った。そして、殺さなければならないと思った。
だって、そうしなければならないとこの世界は終わらない。この悪夢は終わらないのだ。
ーーググググググググ……。
ちゃんとこの人を殺そうという意志、気持ちを込めて。
押し込んでいく。
『しっかり、押し込んで。もっと、深く』
そうだ。彫刻刀じゃ、簡単にはコイツは死なない。もっと深く致命傷を与えなきゃいけない。この人は私を殺そうとしてるんだ。
ちゃんと殺さなきゃ。殺さなきゃいけない。じゃないと……。
暗い執念のような感情が、自分の身体を巡っていた。私の心に、憎しみが胸に凝る。私のものじゃないような濃密で重く、苦しい、モノが。
勢いのまま、ただ抜いて刺すことを繰り返した。ただただ、刺し続ける。
ザシュザシュザシュザシュ、ザシュザシュザシュザシュ。鮮血が飛んだ。血を浴びるのも気にしないで、私はそれを殺すことに専念した。
『……きえて』
「消えて。消えて、消えて、消えて。キエてキエテキエテキエテキエテキエテ」
私の口から私が発しているとは思えないくらいの、低い声が周囲に響き渡った。
こひゅーこひゅーという音が漏れた。怪物に確実にダメージを食らっている。あと少し。
顔周辺を覆っていた黒い渦のような靄が晴れて。女面がポロリと外れた。
恐ろしく大きく感じた身体は、そこまで大きくなかったことに気づく。私はゆっくりと目線をあげた。
『見ないで!!』
リビングの明かりでその顔がしっかりと見えた。
「……なんで」
瞬間、私の身体は大きく跳ねた。
殴られたのだ。その怪物に。
すごい力で、私は部屋の隅に追い詰められた。
『陽奈ちゃん?』
にこにこ、にこにこ。
顔を傾け、笑う姿が薄気味悪い。
にこにこ、にこにこ。
長い黒髪がサラリと風に揺れた。顔に張り付いた笑顔が、何故かよく見える。
ズリズリと音を立てながら、血だらけの姿でそれは私に近づいてくる。
ーーああ、なんで。
笑顔で象られたその気持ちの悪い生き物は、私の。
「おかあさん」
そして、私は思い出した。私の全てを。
***
私は、少し両親が厳しい普通の家に生まれた。完璧主義者の母に、有能だが傲慢な父。そして、そんな二人の期待に応えようとする普通の子どもである私。別になんてことのない、探そうと思えば普通にいるような家族だと思う。
そんな普通の家族の当たり前の日常は、社会不況のおりに巻き込まれた父が、リストラを受けたことで変化を迎えた。家族の中で保っていたバランスが崩れたのだ。父はただでさえ、機嫌が悪いと質が悪かった。それをきっかけに父は荒れた。その当時は母が必至で慰めて機嫌を伺い、父はまた就職先を見つけることができた。この時はまだよかった。
しかし、次第に父はどんどん態度を悪化させていき、母に当たるようになった。父の職場があっていなかったらしい。
母と父の喧嘩の話題は様々に移り変わり、お金のこと、将来のこと、ローンや実家のこと、私のこと、何でもないようなことで母は責められるようになった。
その怒鳴り声が家じゅうに響き渡って、私は耐えられなくなり自分の部屋に閉じこもっていた。
この状況に一番狂わされたのは母だった。ずっと父に責められるのだ。
だから、それが私に向くのもしょうがないことだった。母は私の誕生日を忘れ、社会にとって褒められる私でいることを必要以上に求めるようになった。母の子どもである私が、父に認められるように。母が手ずから育てた私が社会で認められることで、どうにか父の機嫌を取ろうとしたのだろう。
母はどんどんどんどん、私に求めることを増やしていく。いつしか一切の自由は無くなり、私は母のためだけに頑張り続けた。
「凄いわ、流石私の娘ね」
私はその言葉をいつかもらえることを、たくさん褒められていた遠い日の記憶を、信じて頑張っていた。
しかし母は、私の頑張りに関係なく、次第に感情的になり、まるで父のように当たり散らすようになる。冬になるころには、殴られることが日常茶飯事になった。
そのあと我に返って母は、涙ながらに謝る。ごめんなさい、ごめんなさい。母の謝る声がいつまでも頭の中に残っている。
私は母に暴力を振るわれる虚しさと恐怖、憎しみで雁字搦め。けれど優しかった母のことを思い出して、憎みきることもできなかった。
この頃には、もう父は家にほとんど帰らないようになっていた。それが母の狂気に拍車をかけてしまったのかもしれない。あんな父でも母は愛していたから。
ーーそして、あの日がやってきてしまった。
塾の帰り、遅くなってしまった私は、玄関から音をなるべく立てずに、そろりと家に帰った。一度、自分の部屋に荷物を降ろして、リビングに向かう。やはり誰もいない。
キッチンに向かった。そこでは真っ暗闇の中、母がこちらに背を向けて立っていた。両手をぶらんとぶら下げて。リビングの光で出来た影が、異様に濃かったのを覚えている。
「……お母さん、ただいま。どうしたの、そんなところに立って」
私が母の後ろから覗き込むと、父が台所の前で倒れていた。たぶん血を流していただろう。
「大変、お母さん! お父さんが!」
急いで父の様子を見て、母の方向に振り返ると、母はその片手に包丁を持っていた。血で濡れている。ぽたぽた。ぽたぽた。
「……お母さん、それ何」
母は無言でこちらに近づいてくる。包丁を持ったまま。顔は無表情。何も浮かんでなかった。
「……なに。いや、来ないで」
へっぴり腰で、母に背を向け転げまわるように必死でリビングに逃げた。
私は咄嗟に、いくつもいくつもリビングにあるものを母に投げつける。刺されないように必死だった。その一つが母の包丁をどこかに飛ばした。しかし、母は寄ってくる。
「陽奈ちゃん」
間延びしたいつもの母の声。それが怖くて、また私は手に持っていたものを投げた。それは母の胸に吸い込まれるかのように、刺さった。
「……え」
彫刻刀だった。母の趣味に使用していたもの。そこらへんに打ってあるような安物ではなく、しっかりとした作りの、定期的に研がれていたはず。
母は目線を下にして胸に刺さったそれを見て、不思議そうに首を傾げた。無理やり不自然に笑う。
にこにこ、にこにこ。張り付いた笑顔はまるで能面のようだった。
ーーこれは、母ではない。別の何かだ。そうだ、母はこの何かにとらわれてしまったんだ。
私はスッとそう思った。
「陽奈ちゃんどうしたのどうしてこんなことするの陽奈はこんな子じゃないでしょうなんでこんなことするのそこにいるのはお父さんの偽物だから刺しただけお母さんにこんなことしちゃだめよ陽奈ちゃん陽奈ちゃんは誰より良い子なんだから私とお父さんの自慢の娘だからだからだからdakara」
そして今まで無言だったのが嘘のように、凄い勢いで話す女。意味なんて少しもわからない。
女はにっこり笑いながら、しゃべり続けていた。目は半円を描くようにカーブして、口角は最大限に上がっており、無理やりの笑顔を作る。あまりにも気持ちの悪い表情だった。父の血で汚れた顔。唾液が口から零れ落ちる。
その女の胸に突き刺さった彫刻刀を見て、ふと思う。
ーーこの人何で死なないんだろう。
ちゃんと刺せてないのかな。このままじゃ、お母さんが戻ってこない。
「……死んで、くれれば、いいのに」
つぶやいた。
「…………。あなた、陽奈ちゃんじゃないのね」
ーー陽奈ちゃんじゃない。
なら、私はだれ?
陽奈ちゃんを返して! そう女は大きく叫んで、こちらに突進してくる。それはまるで、化け物のように大きく、奇妙で。
それを、どこか上の空で見ていた。
その女は胸に彫刻刀が刺さったまま、それは私に上乗りになる。
そして、私は周辺にあった鈍器で殴られた。
ひたすらに殴られた。
殴られて殴られて、感覚が無くなった。
ガッガッという音が鳴り響いている。
これは耳鳴りなのかなぁ。
頭の中で聞こえるノイズが、おかしくて笑う。
思いっきり、笑う。
「あはは、あは、あはははははは」
おかしな世界。こんなことあるわけないのに。これは夢だよ。
そこで別の笑い声がした。虚無の混じった、泣き声のような、叫び声のような。
「きゃは、きゃははははははハハハ……」
……お母さんの声だ。
悲しいの? どうしたの? お母さん、お母さん。
苦しいのかな。ごめんね、お母さん。お母さん、助けてあげられなくてごめんなさい、ごめん……。
私の視界は点滅を繰り返し、闇の中に沈んだ。最後に見えたのはゆらりゆらりと動く暗い影、血で真っ赤に染まった部屋だった。
***
脳裏に蘇る、私を殴る母の姿。
顔を父の血で染めて。
にこやかに無理やり笑ってた。
「私」はそれを思い出していた。そして、私も思い出しているだろう。
「……あ、そっか。わたし、死んだんだった」
私がポツリと呟き、身体から力を抜いた。
……彫刻刀の持つ手を振り抜くことができない。あと少しなのに。あとほんの少しなのに。
アレが母だと理解してしまったから。振り抜けないのだ。自分を殺した相手だとしても、アレを殺すことができない。
そして、私は笑う。全てを否定して。
「あははは、あははは」
また、壊れた。失敗だ。震えながら、「私」はそう思った。
いつの間にか周囲は、真っ赤に様変わり。
私の身体には無数の糸が巻き付き、操り人形の如くガクンッと力が抜ける。瞳はがらんどう、視点は定まらずまるで人形だ。
化け物はその身体に糸を張り付けて、楽しそうに回っていた。
私の手に持っていた人形は、血で真っ赤に染まっている。それでも私は、その人形を手放さずに持ち、ギュッと手を握りしめて。彼女は眠った。
その人形達は転がり落ち、リビングの隙間に転がった。
ーージジジジジッッ
電気が突然光った。まばゆい太陽のような光。足りなかった人形を加えて、三人家族がそろった。人工のライトに照らされ、計算された快適さの中、お人形達は微笑んでいる。
ああ、幸せそうな家族。どれだけ張りぼてでも、それがきっと母の望んでいた姿だったのだろう。この夢を私はまた乗り越えられなかった。
『…………。リセットしなきゃ』
「私」はそう、呟いた。止まない悪夢。終わらない世界から誰か助けてほしい、と心の底では思いながら。