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九月の風は、かつての清冽さを残しながらも、どこか柔らかな秋の訪れを告げていた。
九月十四日。それは、この小さな国にとって、そして若井滉斗にとって、一年で最も大切な日――大森元貴の誕生日である。
かつての王邸のような贅を尽くした広間はないが、二人が暮らす家には、滉斗が朝から精を出して飾り付けた色とりどりの草花と、不器用ながらも心を込めて準備した馳走が並んでいた。
「……遅いな」
滉斗は、卓に並んだ料理を冷やさぬよう、微かな熱を操る術を指先に灯しながら、窓の外に目をやった。
元貴は少し前に、「街の様子を見てくる」と言って出かけたきりだ。自分たちのための、二人きりの祝宴。その開始時刻はとうに過ぎている。
痺れを切らした滉斗が腰を上げ、街の広場へと向かうと、そこには予想だにしない光景が広がっていた。
「王様! お誕生日おめでとうございます!」
「これ、うちの畑で獲れた一番の林檎です。食べてください!」
広場の中央、人だかりの輪の中心に元貴はいた。
着飾った王の正装ではなく、動きやすい質素な着物に翡翠の首飾りを揺らした彼は、一人ひとりの言葉に丁寧に耳を傾け、あの日と同じ、花が咲くような笑みを振りまいている。
かつては「戦えぬ王」と蔑んだ国民たちも、今では元貴の慈愛に救われ、彼を心から愛している。その光景は、再建を誓った二人にとって理想の形であるはずだった。
だが、滉斗の胸のうちは、少しだけ複雑だった。
「……人気者は辛いな、陛下」
滉斗は腕を組み、輪の少し外側で立ち止まった。
自分だけが知っているはずの、少し眠たげな朝の顔や、術を使いすぎて甘えてくる時の声。それらを独占していたいという独占欲が、胸の奥で小さな冷気となって渦巻く。
かつて戦場を凍てつかせた最強の当主が、今や一人の青年の笑顔を奪い合う国民たちに、子供じみた「嫉妬」を感じているのだ。
その時、人混みの隙間から元貴と目が合った。
元貴は滉斗の姿を認めると、一瞬だけ驚いたように瞳を丸くし、すぐに悪戯っぽく微笑んだ。
「あ、ひろぱ! 迎えに来てくれたの?」
元貴は集まった人々に向かって、「ごめんね、大切な騎士が呼びに来ちゃったから」と優しく断りを入れると、駆け足で滉斗のもとへと寄ってきた。
「待たせてごめんね。みんながどうしてもってお祝いしてくれて……。……もしかして、怒ってる?」
覗き込むような元貴の瞳。滉斗はフイッと顔を背け、ぶっきらぼうにその手を引いた。
「怒ってはいない。……ただ、飯が冷めると思っただけだ」
「ふふ、嘘だ。ひろぱ、耳が赤いよ?」
街の喧騒を背に、二人は家路を急ぐ。
繋いだ手から伝わる元貴の体温は、秋の風の中でも驚くほど温かかった。
家の扉を閉めた瞬間、滉斗は元貴を背後から包み込むように抱きしめた。
「……ひろぱ?」
「外では『みんなの王』でもいい。だが、この家の中では、お前は俺だけのものだ」
耳元で囁かれた低く独占的な声に、元貴は顔を赤らめ、幸せそうに目を細めた。
外の騒がしい祝祭よりも、この静かな部屋で交わされる体温と、少しだけ不機嫌で、けれど誰よりも自分を愛してくれる「盾」の存在が、元貴にとっては最高の贈り物だった。
「お誕生日おめでとう、元貴。……生まれてきてくれて、ありがとう」
最強の剣士が贈る、世界で一番不器用で、一番深い愛の言葉。
琥珀に閉じ込めた過去よりも、今ここにある温もりを、二人は生涯守り続けると誓い合う。
九月の月明かりが、幸せな二人の影を優しく床に落としていた。
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