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岩崎は、月子の隣の座席に腰を下ろすと、体制を整えゆっくり弓を引いた。
「あっ!」
俯いていた月子は、思わず顔を上げ驚きの声を発する。
──セレナーデ。
二人の為の曲、二人の想いを確かめあった曲が流れだしたのだ。
さらに、岩崎は、チェロを演奏しながら歌い始める。
外国語の歌詞だが、その意味は月子も良く分かっていた。岩崎に教えてもらったというより、月子への告白と等しい語りを受けているのだから……。
朗々と岩崎は歌い、チェロがそっと気持ちを後押しして行く。
観客は、いきなり岩崎が歌い始めたことに目を丸くしていたが、歌声と心に迫るチェロの音色に静かに耳を傾けた。
岩崎はゆっくりと弓を引き、セレナーデの終いを迎えると、月子をじっと見つめた。
愛する人へ送ったのだと言わんばかりの情景に、「きゃっ!」と、女学生達から羨望の声があがる。
「やや!来ましたぞっ!写真!写真!」
「ご婦人の甘い吐息!で行きますかっ!」
舞台裾で、記者二人組が騒ぎ立てていた。
観客は、二人だけの世界を見せつけられて、置いてきぼりになっているが、それでも、岩崎の歌声とチェロの音に魅了されたのだろう。ため息のようなものをつきつつ、優しい拍手を繰り出している。
「よし、では、最後だ。麗しの君に。未完成だったが、完成させた!月子、聞いてくれるか?」
桟敷席では、弓を構える岩崎が、月子へ迫るように言った。
「……完成……したのですか?!」
行き掛かり上演奏した、先の発表会から、さほど日は経っていない。それなのに、曲を完成したと言う岩崎に、月子は心底驚いた。
「なんとか間に合った。独演会に未完成のままはみっともない。月子への曲でもある。ちゃんとしたものを聞かせたかった」
岩崎は、時間もなく苦労したであろう事は何一つ言いもせず、ただ、月子へと、そればかり述べた。
当の月子は、とてつもなく甘い言葉を囁かれた気がして、頬を染め俯く。
「……で、あの二人、何やってんだ?アンコール曲演奏しねぇのか?!」
「京さん、二人して、いちゃついているだけじゃねえーの?公衆の面前で!月子ちゃん照れてるじゃねぇーか!つーか、なんだよっ!うらやましいわっーー!」
中村は呆れ果て、二代目が愚痴り、桟敷席を見上げている。
「……な、なんか、岩崎先生、いつもと違いますね……」
二人の様子に当てられた山上も、照れ隠ししながらポツリと言った。
「だって、旦那様は、月子様にちゅっちゅしてるし、同じお布団で寝てるし、お咲、一人きりなんだよぉ……」
月子と一緒だったのにと、寂しげに言うお咲の言葉に、舞台袖の一同は、目を白黒させながら、吹きだした。
「い、一緒の、布団って!」
「なっ!!京さん!!まだ、本祝言挙げてねぇーだろっ!」
中村と二代目が、卒倒しそうになっている。
「え、な、なんか、そんな……と、戸田さん。聞いてしまいましたよ……」
「そう……だな……。山上君。ど、どうすべきだ……ろう」
戸田と山上は、今にも崩れ混みそうによろけている。
「ははは、そんなもの、そうなるでしょ」
「あれ?祝言あげただろ?取材したけど?」
記者二人組は、皆、若いねぇなどと、これまた軽口を叩き、桟敷席の岩崎と月子を見ながらにやけていた。
「な、なんでもいいから、岩崎!!早くやれよっ!!」
中村が、場がもたないとばかりに、つい、雄叫びをあげてしまう。
この一声は、劇場に響き渡り、観客の笑いを誘うが、
「目の毒だよぉ!」
「続きは家でやっとくれ!」
「やだよっ!京さんったらっ!」
「へぇ、嫁さんにベタ惚れかっ!」
などなど、ヤジの声援を送られる始末になった。
その有り様に、岩崎と月子は、ハッとした。家で二人して会話をしているのではないのだ。
コホンと、岩崎が大きく空々しく咳払いをし、声を張り上げる。
「では!最後の曲、私が作曲した、麗しの君に。をお聞きください!!」
キュッとチェロが鳴り、岩崎が、真顔になった。
そのまま、弓を引き、器用に弦へ指を滑らせ、優しく柔らかな音を奏で始める。
先のセレナーデとは異なり、どこか懐かしく、そよ風に似た旋律が劇場を包み込む。
月子は、演奏している岩崎の横顔に、つい見惚れてしまった。
整った顔立ちが、やけに眩しく見えた。
そして、自分の為の音楽が耳に流れ込む。
時にうねるように、時に小川のせせらぎのように軽やかに、月子へ向かって、聞いてくれと飛び込んで来る。
優しく繊細な音に、月子は、心を動かされ、目頭が熱くなった。
客席も皆、岩崎が奏でる旋律の虜になっているようで、音に合わせて体を揺らし、拍子を取っている。皆、柔らかな顔つきで、聞き逃さまいとついて来ている。
「……やりますなぁ」
「ですねぇ……」
舞台裾の記者二人組も、言葉少なく演奏に聞き入っていた。
「……岩崎、あいつ、一皮剥けたなぁ……」
ふっと、中村が口上を上げる。
「なんか、俺にも良さってのがわかるぜ、中村のにいさん……」
二代目も、目を閉じ耳を澄ませていた。
「……戸田さん、岩崎先生、学校と全然違いますね」
「そりゃ、山上君……独演会だから……」
教鞭を取る岩崎の姿とは、あきらかに異なる、まさに底力を目の当たりにした教え子である戸田と山上も言葉がでない。
当然、貴賓席でも、皆、流れ出でる音を追っている──。
もはや劇場は、岩崎の音楽に囚われていた。
すっと、岩崎が弓を引き、そのまま立ち上がると、一礼した。
月子も、思わず立ちあがり、共に頭を下げた。
しんと、静まりかえる劇場だったが、一転、拍手の渦が巻き起こる。
わぁ!きゃあ!おおっ!と、何がなんだか分からない、どよめきが観客からあがった。
そして、盛大に鳴り響く拍手──。
誰しも、この独演会の成功を感じ取っていた。
「月子、一緒にいてくれてありがとう」
岩崎が、拍手と声援に答え、会釈をしなからそっと言う。
突然のことに、月子はドキリとした。
礼を言わねばならないのは、月子の方だ。素晴らしい演奏もさることながら、岩崎は、常に月子の事を考えてくれている。
支えなければならないはずなのに、気かつけば月子は、岩崎に守られているのだ。
「あ……その、本当にそう思っている……」
いつもの、照れ隠し。そっぽを向いて岩崎は月子へ再度言う。
どう答えて良いか分からなくなった月子は、俯きながら、岩崎が着ている上着の裾をギュッと握った。