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「ど……」
──どうして、あなたがここにいるの?
そう尋ねようと思ったけれど、その前にクリスに腕を引っ張られて、マリアンヌは転がるように廊下へと飛び出した。
よろけるマリアンヌを片腕に抱き留めながら、クリスは反対の手で扉を閉める。
「……腕を離してください」
扉の閉まる音と重なるように、マリアンヌから訴えられても、クリスは腕を緩めることはしなかった。
更に自身の胸に抱きよせながら、マリアンヌの耳元に唇を寄せた。
「お帰りのようですね。馬車はもう回すよう手配をしておりますので、このまま玄関ホールに向かわれても大丈夫です」
もがいている最中、飄々とそんな風に言われて、マリアンヌは思わず顔を上げる。
「まさか……立ち聞きしていたの?」
「ウィレイム様が、未婚であるあなたと異性が部屋で二人っきりになるのをお許しになるとでも?」
質問を質問で返され、マリアンヌは言葉に詰まった。
けれど、キッと強く睨みつけながら反論する。
「彼は、私の婚約者です」
「親友の間違いでは?」
「……なっ」
思わず声を荒げたマリアンヌに、クリスはしっと人差し指を口元に当てた。
扉一枚挟んだ向こうにレイドリックが居ることを思い出し、マリアンヌはぐっと奥歯を噛み締める。
それを見たクリスは、低く笑った。
「本当にあなたは素直な良い子ですね。こういう時は、頬を引っ叩くのが正解なんですが」
「なら、今すぐそうして差し上げましょうか?」
「どうぞ、ご自由に」
「……っ」
暴力を促されても、できるわけがない。
たとえどんなに苦手な相手でも、侮辱的な行為を受けたとしても。
だからといって、クリスのことを許せるわけでもない。
「人が見ているかもしれません。こんなこと、兄に知られたらあなたの立場が悪くなるのでは?」
雇われ騎士と、屋敷のお嬢様が抱き合ってるのを目撃されるのは、己の首を締める行為のはず。
精一杯、彼が困ることを捻り出したのに、返ってきたのはクスリ笑いだった。
「なるほど。そう言われたら、手を離さないといけないですね」
言うが早いか、クリスはぱっと腕を解いた。
すぐにマリアンヌはクリスと距離を取り、左右を確認する。幸いにも人の気配はなかった。
「馬車はもう玄関ホールに横付けされていると思いますよ。お部屋に戻られて、お伝えしたほうがいいのでは?」
そう言ったクリスは、何事も無かったかのような涼しい顔をしていた。
レイドリックが玄関ホールに向かうまでの間、クリスは一度も姿を現さなかった。
ほっと胸を撫でおろすマリアンヌだが、すぐに首を傾げる。
別にレイドリックは、クリスが立ち聞きしていたことなど知らないのだ。
兄の護衛騎士がこの屋敷にいるのは、兄の忘れ物を取りに来ただけかもしれないし、急な伝言をヨーゼフに伝えに来たのかもしれない。
それに自分の屋敷に誰が居ようとも、レイドリックがとやかく言う権利はないはずだ。
でもレイドリックがまた不機嫌になることを、マリアンヌは恐れている。先ほどの一件で、彼が何に対して不機嫌になるのかさっぱりわからなくなってしまったから。
もう、あんな怖い顔をされるのは嫌だった。厳しい声で詰問されるのも、今日限りにしたかった。
そんなふうに顔色を窺うようなことを考え始めている時点で、マリアンヌはもうレイドリックと対等ではなくなっていた。彼に従う存在になりつつあった。
でも、マリアンヌが声に出さない限り、それを指摘してくれる者は誰もいない。
玄関ホールに到着すれば、使用人の手で扉が開く。
レイドリックはすたすたと外に出ようとしたが、一度だけ振り返って、マリアンヌに念を押した。
「じゃあね、マリー。さっき言った事、くれぐれも守ってね」
「うん。レイ、本当に今日はごめんなさい」
「もう二度と、こんなことをしなけりゃ、許してやるよ」
「……ありがとう。約束する」
レイドリックが寛容な態度で接しているようにみえるが、実のところは違う。
従順に頷くマリアンヌを見たレイドリックは、満足そうに馬車へと向かおうとするが、何かを思い出したらしく、あっと短く声を上げて、再びマリアンヌの元に来る。
「あのさ、式はまだ先だけど、招待客のリストアップだけはしといて。エリーが知りたいってさ」
「え?……あ、うん」
挙式の参列者は、家門の格式と付き合いで選ぶもの。個人の意思で呼べる者など、ほんの一握りだけ。
それは貴族の常識なのに、なぜエリーゼは、そんなことを知りたいのだろう。
また小さな違和感と共に、疑問が湧く。でも、マリアンヌはこれも素直に頷くだけだった。