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レイドリックの姿が消えた途端、マリアンヌの隣に誰かが並んだ。
顔など見なくてもわかる。これだけ威圧感を感じるのは、一人しかいないから。
「どうぞ兄に、ふしだらなことは何一つしていなかったとお伝えください」
顔を見ずに、マリアンヌはクリスにそう言い捨てて自室に戻ろうとした。けれども、そうはできなかった。
「先日お渡しした菓子はお口に合いましたか?」
「え……?」
虚を衝く質問が返ってきて、マリアンヌは不覚にも、振り返ってしまった。
クリスと目が合う。彼は端正な顔を動かすことなく、返事を待っている。
「……お、美味しかったです」
あんなもの番犬にくれてやったと言えば、クリスに多大なダメージを与えることができるのに、マリアンヌは馬鹿正直にも答えてしまう。
「それは良かった。ところで、ビスケットとカヌレはどちらが美味しかったですか?」
「……どちらも。でも、ビスケットの方が好きです」
「私と同じですね」
そう言ってクリスは、にこりと笑った。街で会った時に見せた屈託のない笑顔を。
マリアンヌは見慣れないものを目にして、心の内側に小さな波が立つ。それは不快なものではなかったので、一瞬だけ警戒心が解けてしまう。
クリスがそれを見逃すはずはなかった。
あっという間にマリアンヌの腰を抱いたかと思うと、玄関ホールの死角に引っ張り込む。
壁際にマリアンヌを追い込み、自分の両手を壁に突き、その中にマリアンヌを囲う。
「ふしだらな事は何一つしていないですと?そりゃあそうでしょう。あなたとアイツの間には友情しかないんだから」
「っ……!そ、それの何が悪いの?」
きつく睨んで言い返したマリアンヌは、過ちを犯してしまったことに気付かない。
クリスのアイスブルーの瞳が、獲物を狙う獰猛な獣のように細められる。形の良い唇が、嘲笑うかのように歪んだ。
「悪くはないですよ。ただ、友達ごっこの延長で結婚を決めるのは、あまりに愚かだと思いますが」
「……なっ」
まるで計画の全貌を知っているかのような口ぶりに、マリアンヌは情けないほど狼狽えてしまう。
クリスの手で壁際に追い込まれてしまっているから、これ以上後退できるわけがないのに、それでも距離を取ろうとしてしまう。
そんなマリアンヌを目にして、クリスは哀れだと思う。怖がらせてしまうことに、胸の片隅が痛んでいる。
けれど、それだけだった。
「結婚などやめておきなさい。あの男は、あなたに相応しくない」
「……レイドリックを悪く言わないでください。私の方が彼に相応しくないんです」
「はっ」
クリスは間髪入れずに鼻で笑った。
なのにその目は、マリアンヌを案じるように憂いていた。お仕えする主の妹の行く末を心配しているというより、個人的に耐えられないという表情だ。
そんな顔を見せられてしまえば、マリアンヌの釣り上がった眉は、自然と下りてしまう。
「なら、そう思っていればいいですよ。マリアンヌ様」
クリスは静かに言った。レイドリックに間違いを指摘された時よりも、遥かに優しい響きで。
「あなたは昔から頑固なところがありますからね。今は何を言っても無駄だというのがわかりました。だから、」
途中で言葉を止めたクリスは、肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「好きにすればいいですよ」
「あなたに指図される覚えはないです」
これ以上ないほど馬鹿にされたような気がして、マリアンヌはぷいっとそっぽを向く。
呆れた笑いが降ってくるけれど、気付かないフリをする。
横を向いた瞬間に、微かに独特な甘い香りが鼻孔をくすぐった。
それは兄のコロンの香りでもなく、レイドリックの慣れ親しんだ香りでもなく、大人の男の香り──クリスの香りだった。
「で、今回は私に言わなくてもいいんですか?」
「え?何をですか?」
香りの原料は何なのだろうと意識をよそに向けた途端、そんなことを問いかけられ、マリアンヌはきょとんとした顔をしてしまう。
「婚約者は他の女性の腰に手を回して歩く軽薄な男だけれど、どうかお兄様には黙っていて、と」
「っ……!?」
あの日、宝石店から出てくるレイドリックとエリーゼを見たのは、自分だけではなかったのだ。よりにもよって、この男に見られるなんて。
「別に……言いたいのでしたら、言えばいいですわ。兄が信じるかどうかは、別ですが」
半ば投げやりに言ったマリアンヌに、クリスは壁に突いている片方の手を離すと、へそを曲げてしまった子供の機嫌を取るように、マリアンヌの頭を軽くたたく。
「そんな顔をしないでください。大丈夫、ウィレイム様には言わないでおきますよ」
───クリスは、ね。
最後の言葉は、クリスの胸の中で紡がれて声に出すことはなかった。
マリアンヌを探すジルの声が玄関ホールに響いたと同時に、クリスは壁に突いていた反対の手も離して、大きく一歩後退した。
そして、綺麗な所作で一礼してマリアンヌに背を向け歩き出した。
去っていく彼の後ろ姿を見ながら、マリアンヌの心は複雑だ。
クリスはこんな強引な態度を取る人だったのだろうか。
そして──レイドリックは、あんなキツイ言い方をする人だったのだろうか。
エリーゼは、何でも相談できる姉のような存在だと思っていたけれど、違っていたのだろうか。
婚約を決めたのは、春の中頃。そして、もう春は終わろうとしている。
春は凍てつく季節を乗り越えて、若葉が芽吹く季節。
始まりの季節。躍動の季節。花舞う季節。
マリアンヌにとって、春は一番好きな季節。
けれど今年は、何かが違うことを知ってしまった苦い季節になってしまった。