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それは偶然だった。緩やかな川とはいえ流れる水に逆らって遡っていく舟に、それも馬の速さにも劣らない速度で行く舟に遭遇した。櫓を握って操船しているのは毛むくじゃらの熊だ。つまり使い魔だ。もちろんそれだけでは絶対とは言えないが、絶対と言うための確たる証拠と言える魔導書の気配を、今のユカリは感じ取ることができない。つまりこの偶然は僥倖だ。
ユカリは心の内で、この冷たい半島を見守ってくれているであろうガレインの神々に感謝した。誰もユカリを責めはしないが、しかし魔導書の気配を感じ取れない罪悪感に日々身の内を焦がされていたのだ。
舟を駆る熊を目撃し、誰からともなしに使い魔捕獲作戦は始まった。風を纏ったグリュエーが飛んで追いかけ、ソラマリアがユビスに跨って追う。
「運ぶ者に運んでもらおうか」とユカリが提案する。
一度はノンネットへの手紙を運ばせて失った運ぶ者だが、救済機構の拠点襲撃の際にグリュエーが運よく回収に成功したのだ。
「運ぶ者は他者を追う魔術を修めていないのではありませんでしたか?」とレモニカが疑義を呈する。
「いや、今回の場合は川を遡っているわけだから、行く先で待ち構えることができるよ」そう言ってベルニージュは地図を開く。「幸いしばらく支流もないみたい」
「一人ずつだったよね。まずベルニージュを運んでもらおう」ユカリは白紙文書から運ぶ者の封印を取り出す。「あ、人間に貼れば二人で行けるか」
レモニカと顔を見合わせるが、レモニカは首を横に振る。「わたくしの場合、運ぶ者の嫌いな何かに変身してしまいますわ。遅れ馳せますが、除く者たちと共に追います。わたくしの活躍の場も残しておいてくださいませね」
レモニカが悪戯っぽい笑みを浮かべるとユカリは同じように応じる。
「分かった。でも追いついた時にはもう捕まえちゃってるかもね」
「ここにしよう」とベルニージュが地図を指さす。「かなり急な弧を描いているから少しは速度が落ちるかも」
ユカリが運ぶ者の封印を肩に貼ると、途端にありとあらゆる運ぶ魔術が、まるで生まれた時から知っていたかのように記憶の中に存在した。
「意外と難しい魔術なんだね」とユカリは呟く。
枝のような手足のベルニージュを背負う。そして手足を動かすが如く魔術体系内の適切な業を行使する。山に住む者も海に住む者も隔てない畏敬の念を抱き、遍く土地に通ずる星の智慧に基づく歌をうたう。季節と共に土地を巡る鳥たちのように赴くままに想像力を空に放ち、それでいて此岸と彼岸を鎖で渡すように心象を縛り付け、肉体に降ろす。
すると景色が溶けるように後方へと伸びて、目で追えない速度で流れ去っていく。自身の足で走っている感覚もない。そうして気が付けばグリュエーもユビスも熊の使い魔も追い越した先、弧の半ばの川岸に二人はいた。
「どうする?」と言いつつもユカリはベルニージュがどうにかしてくれると思っていた。
「蒸発させるのが手っ取り早いかな、と」
ユカリが今までに何度か見てきた呪文に比べれば簡易な言葉をベルニージュは幾つか並べる。古の魔女の通告、巨人の怨嗟と遺言、そして呪いの言葉が略式で述べられる。
ベルニージュの傍らに小さな灯が点ったと思うと、一息に膨れ上がり、炎の巨人が現れた。そして巨人は既に肉体を酷使した後かのように寝っ転がり、川を閉ざす。何も知らずに上流から流れてきた水は炎の巨人の背に受け止められ、悲鳴のような蒸発音と共に白い水蒸気となって濛々と立ち込めた。そして炎の巨人によって流れを失った下流では水底が露わになり、まるで水ではなく川床が流れていくかのように下流へ向かって川の最後尾が流れ去っていく。
「来たよ」
ユカリは指さすがベルニージュにはまだ見えない距離だった。しかしすぐに小さな舟が嵐を完全に受け止めた帆船のように猛然とやってきて、痛々しい擦過音をあげながら水無き川床に突っ込んだ。
憮然と立ち尽くす熊は川を侵す炎の巨人を見、自分に近づいてくるユカリを見つめる。熊は身構え、その体毛が銀色に発光し、甲虫めいた姿へと変じる。
「やめた方が良いよ」とユカリは忠告する。「脅す訳じゃないけど、その毛皮、焼かれたくないんじゃない?」
「どうしてそう思う?」
「何人かの使い魔は思い入れのあるものに憑いてたから、そうじゃないかな、と」
銀色の発光虫は観念した様子で元の熊の姿に戻る。
すぐにソラマリアとユビス、グリュエーが合流する。
「頼む――」と熊は悲し気な声色で言う。
「まず櫓を放して、舟を降りて、舟を川岸まで引き上げて」淡々とした命令に熊が黙って従うと、さらにユカリは指示を加える。「舟から離れて封印を見せて。一旦剥がして貼り直す。幾つか【命令】し、その後に話を聞く。いい? 悪いようにはしないと養父母と神に誓う」
「……分かった。従う」
ユカリは使い魔が曝した熊の毛皮を掻き分けて、封印――それは菱形で、棹を握った蛍が描かれていた――を見つける。それは内側に作られた布嚢に貼られており、布嚢には一輪の白い牡丹一華が差してあった。ユカリはちらりと熊の顔を見上げ、勢いよく封印を剥がすと牡丹一華が潰れてしまわないように毛皮を支えつつ、ベルニージュに合図を出す。炎の巨人が消え、川はしばらくして元通りになった。
熊の毛皮に貼られた使い魔渡す者の操る舟で一行は清らか川を遡っていた。その名の通り、清けきシナフ川は他の川の例に漏れず、遡るにつれ徐々に川幅が狭くなり、囁くような流れが不平を零すように流れ、ついには不満を訴えるかのように声高らかに流れゆく。まるで今にも古の秘密と陰謀を明かすかのように。
神々の最初の敵、ヴィンゴロ山系から流れ出る川の伝えは二通りに分かれる。一つはその身から流した血、そしてもう一つはヴィンゴロが飲み干した血が漏れ出たものだ。シナフ川は後者の一つで巨人の体内で呪いを受けた神々の神聖な血は、飲み干した者に祝福を与え、水浴びをした者に呪禍をもたらしたという。
「故郷ってどういうこと?」とユカリは操船する使い魔に尋ねる。
回収されることに同意を得つつ、一度故郷に帰り、せめて家族に別れを告げたいと渡す者に泣きつかれたのだ。
「いや、生まれ故郷ではないんだがな。家族というのも、古い親友の子孫たちだ。俺様と共に渡し守を生業としていた。シナフ川の上流、舟殺しの滝の周囲に竜骨という街がある。林業で始まった頃からずっと住んでいたんだ」
ベルニージュの示した地図にも確かにその街が記されていた。
「機構に捕まる前はそこに住んでいたんだ。もう四、五十年前の話だがな。俺様は渡し守として働いていた。橋を架けるには複雑な地形で、日に何十回も往復していたものだ。人と物を運ぶ、さながら街の心臓のように。ここから揺れるぞ」
渡す者の簡単な警告には見合わない怒涛の如き急流が待ち受けていた。使い魔の操る舟はそれをまるで流れ落ちる速度で流れ登っていくのだった。しかし予想していた災難に比べれば、穏やかで揺り椅子に身を任せるのと変わらない。舟上は相変わらず心地よく、下手すれば寝入ってしまいそうな穏やかさだ。
「ユビスが遅れてる。グリュエーが一緒に行くから先に行ってて」と言ってグリュエーがユビスの元へ飛び立った。残念ながら渡す者には舟をどうにかする魔術を内包されておらず、巨大馬を小舟に乗せる力は持ち合わせていなかった。
「すごいね。滝でも登れそう」と言ってユカリは舌を噛んだ。
「滝ならもう登れる。次の目標は雨だ」と渡す者は言った。
山を分け入るように舟は遡っていく。次第に巨大で威圧的な岩が現れ始めるが、渡す者の巧みな櫓捌きで回避しつつ、少しも速度を緩めることはない。
「止まって」とユカリに言われ、渡す者は急流の中ぴたりと舟を止める。前後左右、上下に至るまで微動だにしない。渡す者の櫂だけが複雑に動き続けていた。
「どうかしたの?」とベルニージュに問われ、ユカリは言葉を探す。
渡す者の気持ちを考えて咄嗟に言ってしまったが、避けようのないことだと気づく。
「気なら遣わなくていいぜ」と渡す者が言う。「俺にももう見える」
「そっか。ごめん。じゃあ、行って」
マーゴロンの街には立派な橋が架かっていた。それも川を渡るばかりではなく、滝の上へ通じる階段や坂道とも接続されており、行き交う人々の多さが全貌の見えない街の規模を想像させる。渡し守の仕事はもうないだろう、と想像できる。
「このような山の上にこのような大きな街があるなんて」とレモニカも溜息をつくように感嘆した。
「山越えの要衝なのかな」地図を見ながらベルニージュが言う。「周りに比べたら山頂の標高も低いようだし」
ベルニージュの言う通り、南北に横たわる連峰がマーゴロンの街の上方で凹んでいた。
陸に上がると随分目立った。注目する者、逃げ出す者、悲鳴をあげる者、様々だ。急流を遡って来た舟から何人かの人間と二足歩行の熊が現れたのだから無理からぬことだ。
「私たちだけで行くよ」とユカリは言った。「皆はグリュエーを迎えに行ってあげて」
結局最も目立つのは熊なのだから別れたところで耳目を集めるのは変わらなかった。しかし渡す者のことを覚えている者、伝え聞いている者はそれなりにいるようで、大きな騒ぎにはならなかった。
マーゴロンの街は三つに分かれている。シナフ川南岸街と北岸街、そしてスウェンギルの滝の上にある湖岸街だ。滝壺を挟む街の景色は白く煙り、濛々たる水滴の浮かぶ中に巨大な構造物が聳えている。それは橋であり階段であり坂道であり、縦横に伸びて両岸と滝の上を繋いでいる。
「ちょっといいか?」と渡す者が不安そうに言った。
「どうかした?」
往来の真ん中で立ち止まる熊の毛皮の使い魔は何やら意気を失ったかのように縮こまる。
「あの家なんだ」と言って渡す者が指さしたのは大きな橋の下、大きな滝壺沿いに立てられた家々の内の一軒だ。「長らく不在だったんだ。子か孫か分からんが、俺様のことを伝え聞いていなかったなら、突然現れても何とも思わないだろう?」
「そうかな。どっちにしたって街の人の流れと物流を支えた功労者でしょ? 無碍な扱いはされないと思うけど」
「頼む」と小心者の使い魔は言う。
「分かったよ」
ユカリは一人、渡す者の住んでいたらしい家へと向かい、扉を叩く。
「どちら様?」
姿を現したのは中年の女だ。幼い子供を一人背負い、足元にももう一人まとわりつかれている。
「ここに渡し守の方が住んでいるって聞いたんですけど」
「うちじゃあないわね。……あ! 前に住んでいたご家族じゃないかしら? 大工の一族で、その昔は渡し守だったって聞いたことがあるわ。確かベグテールを架けたのもその大工の棟梁だとか」
「ベグテール?」とユカリは聞き返す。渡す者のことを言ったようには聞こえなかったからだ。
「ほら、この橋の名前」そう言って女は頭上の橋を指さす。
ユカリは礼を言って、渡す者の元に戻り、聞いたことをそのまま伝える。
「そうか」
「ベグテールだってさ。功労者にちなんだに違いないね。あの橋から滝の上に登れるよ」
「いや、会いに行くのはやめるよ」
「どうして? 忘れられてないみたいだよ?」
「でも渡し守はもう必要ない。そうだろう? それよりもう一つ行きたいところがある。付き合ってくれるか?」
「なんなりと」
「待って! 本当に! 大丈夫なの!?」
舟の舳先はまるで鋭い刃で肉を引き裂くように滝壺に湛えられた水を掻き分け、放たれた矢のように一直線に滝を目指す。
「言ったろ。滝はもう登れるんだ」
「私も落とさないように!?」
「そう言えば誰かを乗せて登るのは初めてだ」
「助けて!」
激しく唸る滝の水飛沫を浴びつつ、体重を失ったように宙に浮く。渡す者の操る舟はユカリを乗せて、スウェンギルの滝を駆け上がっていく。それはほんの少しの瞬間だったはずだが、ユカリは時を引き延ばされたように感じ。舞い散る水滴の一粒一粒までよく見えた。
そして勢いよく滝上の湖に着水した。まだ生きた心地のしないユカリを乗せて舟は崖際の岸辺に寄せる。そこには一基の墓があり、舟を降りた渡す者は毛皮の中から取り出した一輪の白い牡丹一華をぶっきらぼうに手向けた。