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第二十六章 青の居ない世界
ホテルのロビーで何度か顔を合わせる老夫婦だった。
いつも同じ時間にコーヒーを飲んでいて、
翔太のことを「cutie boy」と呼んでいた。
老婦人がカップを持ち上げながら、ふと眉を寄せる。
「コートはどうしたの? 今日は冷えるわよ」
自分でも少し震えているのが分かって、肩をすくめる。
「愛しい人に追い剥ぎに遭いまして」
老人が小さく吹き出す。
「まあまあ、それは災難ね」
でも、悪い気はしてない顔よ?」
老婦人はカップの縁をなぞると、静かにカップをテーブルの上に置いた。
「I haven’t seen ‘Blue’ lately」
唐突だった。
ピンと空気が張るようなそんな感覚があった。
最近、“あの青”を見ないわ、と彼女は言った。
突然の言葉に、思わず聞き返した。
「What do you mean?」
――どういうことですか?
彼女は少しだけ首を傾げる。
“Cutie boy.”
そして、目元を指さした。
「あの子の瞳。前は、もっと青かったわ……明るい青だった」
彼のことを知っているの?と聞くと〝素敵な恋人ね……大事にしなさい〟と言って最後にこう言った。
「青を見失わないように。
それは、彼の色なんでしょう?」
空港での別れ際、俺だって感じ取った。
もう彼の目に青は居ない。
何が起きているのかも、想像だにできない俺に、してあげられる事は何だろう。
翔太 side
空港で蓮と別れて2週間が経った。
最近オフの日が多い。
なるべく、いつもと同じように過ごす。
会員制のサロンに、サウナ、行きつけの焼き鳥屋さん。
〝はじめまして〟のやり取りも慣れた。
きっと新人さんなんだろうなんて、ご都合主義を押し付けて。
世界が、少しだけ遠い。
ほんの少しだけね……ちょびっとだけ――
長く伸びる湾岸線。
タクシーの背もたれに体を預けて目を瞑る。
不安げに瞳を揺らす蓮を思い出していた。
カナダへ行くたびに、驚いて、割れ物を触るような手で頬に触れた。不安の原因は俺だって、分かっていながら会いに行った。
迷惑をかけたいわけじゃ無い。
不安を煽りたいわけでも無い。
今の蓮にとって、俺は重荷なんじゃないかと――そう思ってしまう自分が、いちばん厄介だった。
震える人差し指を見ないようにした。
それが怖くて、シャツの裾から離れた手は握ったままの拳で、自分のズボンの裾を掴んだ。
世界から弾き出されたみたいに、存在が軽くなる。
ちゃんと立っているのに、地面が遠い。
どこへ落ちるんだろう。
軽いまま。
「これが代償ってやつ?」
街中に溢れる、俺たちの広告。
駅のポスターに、電車内の吊り広告。
まだそこに俺はちゃんといる。帰る場所がまだそこにある。
そう思ったのに――
ふと、手に取ったスマホ。
未読のメッセージ。
俺のいないリハ動画が、タイムラインに流れてきた。
そう言えば最近、現場に呼ばれていない。
新しい広告の撮影なども、何もない。
車に乗り込んで向かった先は亮平のマンションだった。
インターホンを押す手が震えて、スマホを取り出す。
翔太📲「あぁ俺……翔太、しょうただよ開けて!」
無音で開いた自動ドア。
玄関扉の前で立ち止まった。またスマホを取り出すと、突然開いた玄関扉におでこをぶつけた。
「痛った」
「良かった……痛くて」
「なぁにそれ」
「最近、顔見てなかったから……元気なの?」
気が付いたら抱き付いてた。
――良かった涼太が居なくて。怒られるとこだった。
「亮平助けて」
「……遅いわ、バカ翔太!ちっとも可愛いくない。
早く入んな」
部屋に入った途端、匂いがした。
いつもの亮平の香水の匂い。安心する匂いのはずだった。
靴を脱ぐのに、やけに時間がかかった。
指先に力が入らない。
「ひどい顔」
ソファに座ってと言われて、頷いた気がする。
けれど、膝が曲がらなかった。
視界の端で、部屋の明かりがやけに白い。
「……蓮と、なんかあったの?」
その名前が、胸の奥に落ちた。軽いはずなのに、そこだけ重い。うまく息が吸えない。言わなきゃと思うのに、声が出ない。助けてと言ったのは自分なのに。亮平が近づく。
「翔太?」
肩に触れられた瞬間、世界が近すぎた。
近い。近すぎる。
視界が揺れる。部屋の壁が迫ってくる。
立ち上がったのは、無意識だった。
「おい」
呼ばれたけれど、振り向かなかった。玄関までの距離がやけに短い。ドアノブが冷たい。靴を踏み潰すみたいに履いて、外へ出た。世界から押し出されるように――
「翔太!」
その声も、遠い。
エレベーターを待つのが嫌で、階段を降りる。
足音だけが響く。何も考えていない。
ただ、ここに居られなかった。
車に乗り込む。ドアを閉めた瞬間、やっと音が止まる。
湾岸線に出るまでの信号が、やけに長い。
流れ始めた道路。隣に海がある。
けれど、色が分からない。
窓を少しだけ開ける。
波の音が届く。規則正しい。
俺の呼吸より、ずっと整っている。
風が、ほんの少しだけ頬に触れる。
冷たいのかどうかも、分からない。海はそこにあるのに、何色なのか、分からない。
ハンドルを握る手が、軽い。
このまま走り続けたら、どこかに落ちるのだろうか。
軽いまま――色のない世界へ
亮平 side
ピッタリと閉まったままのカーテン。
光は一筋も入っていない。
ベッド脇の床に、毛布が置かれている。
敷いたのか、落ちたのか、分からないまま。
翔太が俺の家を飛び出して、間も無くして涼太が仕事から帰ってくると、事情を聞くや否や
「行くぞ」
そう言って家を飛び出した。
こんな時に、不謹慎にも涼太の事をかっこいいと思った。
誰も居ない翔太の家は、時間が止まったみたいで、綺麗好きの翔太には珍しく、洗い物はたまり、空気が悪かった。
翔太らしくない部屋の荒れように、幼馴染の涼太は動揺した。
不安をごまかすみたいに、涼太の手を掴んだ。
そのまま二人で、部屋の奥へ進む。
足が止まった。
毛布が、壁に寄りかかるように置かれている。
何もないのに、そこだけ空気が沈んでいる。
そっと壁に手を当てる。
冷たい。
「……ここに居た」
「亮平?」
喉の奥が、少しだけ詰まる。
影を落としたその隅っこに、翔太の息遣いを感じた。
「……俺の」
――大事な
可愛い子ちゃん。
コメント
3件
魔法に代償があるなんて聞いてない😭😭😭
