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第二十七章 甘くないココア
空が白みはじめても、海の色は分からなかった。
黒が薄くなっただけ。
波の音は、夜と同じ速さで続いている。
どれだけ眺めても、何も戻らない。
ハンドルから手を離す。軽いままの指先は依然として冷たい。
エンジンを切ると、静けさが落ちた。
窓を閉める。
けれど、潮の匂いは消えない。そのまま車を降りた。
あの日以来の海だった。
フランスの離島でふたり、愛を誓った。
プロヴァンスの風が潮を運び、真っ青な海が二人を祝福するように揺れていた。
目を瞑ってもその青が思い出せない。
暗い海の中に潜れば〝青に出逢えるだろうか?〟
朝日が海面を照らす。波に反射してキラキラと光って眩し過ぎてそれ以上眺めていられなかった。
空気は冷たいはずなのに、よく分からない。
鍵を回す音が、やけに大きかった。
扉がいつもより重く、肩を押し付けて開いた隙間から中に入ると、部屋の奥に、気配がある。
ソファに二人。
カーテンは閉じたまま。
テーブルの上には、手をつけられていないコップが二つ。
「……おかえり」
亮平の声。
怒っていない。優しくもない。
ただ、一晩分の時間がそこにあった。
涼太は何も言わない。
けれど、視線だけが動く。俺を見ている。
潮の匂いが、自分から立ち上る。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が出ない。
「……ごめ」
掠れた声が、途中で消える。
亮平は立ち上がらない。近づかない。
その距離が、急に遠く感じた。
「俺、見えてる?」
震える声に、亮平の視線が、少しだけ揺れる。
一拍。
「……見えてるに決まってる」
低い声。
「ちゃんと居る。ここに」
――俺の大事な
可愛い子ちゃん。
そう言われた気がした。涼太が小さく息を吐く。
「見えなくなったら、こんなに腹立たねぇよ。疲れたろ……風呂、沸いてる」
涼太の言葉に優しさを感じる。その場に立ったまま、動けない。カーテンの向こうで、朝が来ている。
それでも、部屋の中に青はない。
目を開けても、閉じても。まだ、ない。
気が付いたら亮平の腕の中で泣いていた。
頭を撫でてくれたのは涼太だった。
「ひとりじゃお風呂にも行けないみたい……困った子」
「ごめんなさい」
「2人とも座りなさい……ココアを入れよう。翔太好きだろう」
白く湧き立つ湯気の中に、ココアの甘い匂いが鼻腔をくすぐった。〝癒し効果があるんだろ?〟涼太は意地悪く笑った。
子供の頃、涼太と喧嘩したらママがココアを作ってくれた。
甘ったるくて、でも、あたたかい。
あの匂いと、二人が待つこの場所も、ココアと同じくらいあたたかい。まだ口にしていないのに、胸の奥に熱が戻る。
「甘いの、嫌いでしょ?」
亮平が言う。
「ココアは別物……それに今は、分かんない」
「味も?」
小さく頷く。
涼太がカップを持ち上げて、唇に少しだけ近づける。
「ほら。飲め。熱いから気をつけろ」
子どもみたいだ、と思う。でも拒めなかった。
だけどまだ見えない。俺の青はどこにもなかった。両手でカップを持ち上げて、一口啜った。
「あらあら、泣き虫さん」
自然と頰を伝った涙を亮平は、笑いながら拭き取った。
――あたたかい。
それでも、色は戻らない。
「どこ行ってたの」
亮平の責めない声は、心地よく、待ってくれていた。
急かさず、答えを求めず、ただの会話みたいに……
「……青が、ない……どこにも」
二人が顔を見合わせる。亮平の指先が、わずかに強くなる。
一瞬だけ、視線が揺れる。
「……蓮は、違うのね?」
俺は答えられない。
何が起きているのか、自分でも分からないのだから。
「俺が蓮を選んだから……青が、薄くなった気がする」
蓮さえ覚えていてくれれば、それだけでよかった。今だってそう思ってる。
二人が俺を心配してくれていると、分かるまでは――
その沈黙を、涼太が拾う。
「じゃあ、探せばいい」
静かにリビングに響いた涼太の声。
「青がないなら、探せばいい。翔太の青を――」
涼太はそれだけ言って、ココアを一口飲んだ。
まるで当たり前みたいに。
その言葉が、胸のどこかに沈んだ。
まだ色はない。けれど、消えてはいなかった。
亮平の肩越しに、カーテンの隙間がわずかに揺れる。
白んだ光が、ほんの細い線になって床に落ちている。
青ではない。まだ、違う。それでも。暗闇だけではなかった。
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示唆的で謎だらけなのに、惹かれる。それが花凛さんの魅力。