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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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「うれしい」
ガラスの向こうで、水野は子どものように笑った。あまりにも無邪気なその表情に、一花の身体が強張る。
この男は、母を殺した。
悠真をあんな目に遭わせ、自分の顔にも、首にも、腕にも、消えないかもしれない傷を残した。
それなのに目の前の水野からは、自分が取り返しのつかないことをしたという自覚がまるで感じられなかった。
「ずっと会いたかった」
水野は嬉しそうに身を乗り出す。
「会いたかったんだよ、一花ちゃん」
その視線が、一花の顔へ向けられた。帽子とマスクに隠れた部分を確かめようとするかのように、じっと見つめてくる。
「一花ちゃん、痛い?」
一花の指先が震えた。
「一花ちゃん、痛い。かわいそう」
「……ふざけないで!」
気づいた時には、声を荒らげていた。一花は帽子を乱暴に脱ぐと、そのままマスクへ手をかける。
「見てよ!」
勢いよくマスクを外し、火傷の痕が残る顔をガラスの向こうへさらした。
「こうなったのも、全部あなたのせいでしょう!?」
水野は目を見開き、一花の顔をまじまじと見つめた。
「……痛そう」
その一言で、胸の奥に張り詰めていた何かが切れた。
「あなたが火をつけたから、こうなったの!」
「お母さんは死んだ! 悠真だって、まだ目を覚ましてない!」
ずっと押し込めていたものが、一気に溢れ出す。声が震えているのが分かっても、もう止めることはできなかった。
「あの日まで、普通に暮らしてたのに……全部あなたが壊したの!」
「全部あなたが……!」
「違う」
水野は怯えた子どものように首を横へ振る。
「違う。違うよ」
「何が違うの!?」
一花は椅子から身を乗り出し、ガラス越しに水野を睨みつけた。
「お母さんを返してよ! 悠真を元に戻してよ!」
喉が痛い。それでも、次から次へと言葉が溢れてくる。
「私の顔も、身体も……全部元に戻してよ!」
最後の声は掠れていた。
「返してよ……!」
息がうまく吸えなくなり、肩が大きく上下する。
浅い呼吸を何度も繰り返しながら、一花はガラスへ向けていた視線を落とした。
「桜井さん」
すぐ隣から、神崎の落ち着いた声が届く。
「桜井さん。ゆっくり息をしてください」
一花は返事をすることもできなかった。膝の上で震える手を握りしめる。
「大丈夫です。ここにいますから」
「ゆっくりでいいです。息を吐いて」
その声を頼りに、一花は何とか息を吐き出した。
もう一度、ゆっくり吸って、吐く。
何度か繰り返すうちに、激しく上下していた肩が少しずつ落ち着いていった。
「……すみません」
「謝らなくていいです」
神崎の声音は変わらず穏やかだった。
一花は唇を噛み、もう一度ガラスの向こうへ視線を戻す。
水野はそんな一花を、不思議そうな顔で見つめていた。
「助けたかったのに」
「……何?」
「一花ちゃんを、助けたかった」
怒りで熱くなっていた身体が、今度はひやりと冷えていく。
「家に火をつけて、お母さんを殺して……それのどこが私を助けることになるの?」
「だって」
水野は首を傾げた。
「一花ちゃん、つらかったんでしょ?」
「……え?」
「俊介くん」
一花の表情が固まる。
どうして、水野の口から俊介の名前が出てくるのか。
「借金、いっぱい」
「……何を言ってるの?」
「一花ちゃん、かわいそう」
水野はそれだけ言うと、どこか安心したように笑った。
俊介が友人の連帯保証人になり、多額の借金を背負ったこと。
その返済に追われ、この先も家族三人でやっていけるのかと、一花が不安を抱えていたこと。
水野とは、これまで会話をしたことさえ一度もない。
それなのに、どうして。
「……誰から聞いたの?」
一花の声が掠れた。
水野は答えず、何かを思い出すように視線を宙へさまよわせる。
「だって、一花ちゃんはえらくても平気な顔する子なんでしょ?」
「……えらい?」
思わず聞き返した。
「うん。えらくても、大丈夫って」
その言葉に、呼吸が止まった。
「……ねえ」
「ここ以外の場所に住んでたこと、ある?」
突然話が変わったことを不思議に思ったのか、水野がぱちぱちと瞬きをする。
「ないよ」
「ずっと?」
「うん」
胸の奥が、嫌な音を立ててざわついた。
なぜか、その言葉に奈緒の顔が重なる。
奈緒は、高校へ入る少し前まで名古屋で暮らしていた――。
普段は標準語だったが、ときどき本人も気づかないまま、昔住んでいた土地の言葉が混じることがあった。
あれは、確か高校に入って間もない頃だった。
『今日、ほんとえらい』
『えらい? 何が偉いの?』
『え? 疲れたってことだけど』
『そういう意味なんだ』
その時は、それで終わった。
けれど後になって、一花は偶然、「えらい」が東海地方などで「しんどい」「疲れた」という意味で使われる言葉だと知った。
『奈緒、前に言ってた「えらい」って、方言らしいよ』
『えっ、嘘。普通にみんな言うと思ってた』
『私、最初ほんとに褒めてるのかと思ったもん』
そう言うと、奈緒も吹き出した。顔を見合わせて笑ったことを、今でも覚えている。
最近では、奈緒の口からその言葉を聞くこともほとんどなくなっていた。
それなのに、どうして水野が同じ意味でその言葉を使うのか。
「……誰から聞いたの?」
「ん?」
「今の話。私が、えらくても平気な顔をするって」
一花はガラスへ身を寄せた。
「誰がそう言ったの?」
水野はきょとんとした顔で一花を見る。
「誰って?」
「私のことを、あなたに話した人がいるんでしょ?」
返事はない。
「俊介のお金のことも、その人から聞いたの?」
水野の口元がわずかに動いた。
「ねえ、誰なの?」
一花の声が震える。
「誰が、あなたに私のことを話したの?」
水野は何も答えなかった。代わりに、唇から調子外れの鼻歌がこぼれる。
「ふーん……ふ、ふーん……」
「水野」
「ふーん……」
「ちゃんと答えて!」
ガラス越しに声を張り上げた、その瞬間だった。
「あはははは!」
水野が突然、声を上げて笑い始め、一花の肩が跳ねる。
「もえた!」
身体が凍りついた。
「もえたぁ!」
「……やめて」
「しあわせ!」
水野は両肩を揺らしながら、ますます楽しそうに笑った。
「みんなしあわせ!」
「やめて!!」
一花が叫ぶのとほとんど同時に、傍に控えていた職員たちが動いた。
「面会は終了です!」
水野の身体が椅子から引き離される。それでも抵抗する様子はなく、むしろ楽しい遊びの途中で連れていかれる子どものように笑い続けていた。
「もえた、もえた!」
「水野、行くぞ!」
「しあわせ! みんなしあわせ!」
扉が閉まり、水野の姿が見えなくなる。
それでも、甲高い笑い声だけは耳の奥にこびりついて離れなかった。
コメント
1件
うわ…第20話、めちゃくちゃ重かった。一花ちゃんが全部ぶちまける場面、こっちまで息できなくなったよ。火傷の痕を見せたシーンとか、胸がぎゅっとなった。それなのに水野はまるで通じてなくて、ズレたままだから余計に怖い…。 そして奈緒の方言が水野の口から出てきたところ、背筋が凍った。誰が一花のことを教えたんだろう。伏線がじわじわ効いてきてる。神崎さんの「ゆっくり息をしてください」が沁みた。ああいう人がそばにいてくれてよかったね。続き、ちゃんと読ませてもらうね。