モディーハンナの冷たい手の中でグリュエーは思考を巡らせる。他の封印は耕す者に持たせて、ノンネットの部屋に向かわせた。この小冊子とノンネットに繋がりは無い。元々首席焚書官サイスの持ち物だ。最悪には程遠い。まだ上手くやれている。
とにかく一度使い魔と合流して、この砦から逃がさなくてはならない。別の何かに憑依したいところだが、そう都合よく軽く小さく忍びやすい物など見つからない。
モディーハンナは部屋を出た後、見かけた僧兵たちを引き連れてどこかへ向かっている。今や砦の造りをあらかた把握しているグリュエーは頭の中で徐々にモディーハンナの向かっている場所を絞り、確信に至る。焚書官たちに割り当てられた区画だ。つまりモディーハンナはこの小冊子がサイスのものだと知っていたのだ。
真夜中に、宿舎のような区画へ訪問者がやって来て、二段、三段と重なった寝台から焚書官たちが起き上がってくる。今はアンソルーペ率いる第四局が出払っており、サイスの率いる第二局も全隊がこのガレイン半島にやって来ている訳ではないので閑散としていた。一方は石の壁で他方は木の壁、縦横斜めに伸びた柱と梁、不揃いな寝台、改築と増築を重ねたロガット市城壁の腫瘍のような砦のなかでも取り分け間に合わせのような造りの区画だ。ぽつぽつと蝋燭の火が灯って青い灯りを圧倒し、深夜の訪問者に視線が集まる。
「どうかしましたか? こんな夜中に」と部屋の奥からサイスが現れて言った。「モディーハンナさんに必要なのは睡眠だと思いますが、大丈夫ですか?」
いかにも生意気そうだ、というのがサイスの素顔を初めて見たグリュエーの印象だった。青みを帯びた黒髪に睨みつけるような灰色の瞳、丸みの残る顔、尖った鼻の下に意地悪気な笑みを浮かべている。グリュエーやノンネットと歳は近いはずだが、年下のような印象を受ける。
「私もそう思いますが、急用なので。率直に尋ねますが、ここに封印があるのでは?」
そう言ってモディーハンナはファボム写本の抜粋集を見せつける。グリュエーは緊張を高めつつ、じっとしている。
サイスは目を細め、僅かに首を傾げた。
「私の写本ですか? ずっと探していたんです。どうして貴女が?」
「これが私の部屋に忍び込み、封印を盗んだのですよ」
「なるほど。だから私が疑われているという訳ですか」そう言ってサイスは揶揄うような笑みを小冊子に向ける。
グリュエーは以前に手紙の姿でサイスと会話をし、取引を持ち掛けようとしたが断られた。挙句、その手紙をモディーハンナに渡されたのだが、護女エーミが手紙に憑依していた事実はモディーハンナに伝えていなかった、ということだ。手紙を調べれば直ぐに分かる、とでも思ったのかもしれないが、報告しない理由はないはずだ。恩を着せたつもりか、何か別の意図があるのか、グリュエーには読み切れなかった。もちろんこの小冊子に乗り移ったことはばれていなかったはずだ、それも今この瞬間までの話だが。
「釈明はありますか?」とモディーハンナは問う。
青白い鬼火が焚書官たちの間を漂って、部屋のあちこちを照らしている。まるで獲物の隠れた巣穴を探す捕食者のように。
「釈明というか、短絡的な推測ですね。モディーハンナさん、私が渡したあの手紙の中身を読んでいないわけではありませんよね?」
想像していた答えではなかったのか、モディーハンナは少し思案する。
「……あの告発書ですか。ここにいない護女エーミにできることなどないと思いますが、まさか護女ノンネットの仕業だとでも? それほど剛腹とは思えませんがね。何より、彼女の聖女への執着心は並々ならぬものがありますし、機構を裏切るとはとてもとても」
「妬ましいですね。私の忠誠心は信じてもらえなかったというのに。まあ、好きなだけ調べてもらって構いませんよ。そして私の忠誠心への認識を改めていただきたいですね」
モディーハンナは少しの躊躇いもなく頭を下げた。サイスの言葉は信じるに値する、と判断した理由がグリュエーには分からなかった。あるいは既に調べ終わったのかもしれない。
「疑いをかけて申し訳ありません。正確にはまだ疑っていますが、確かにノンネットの方がより怪しいですね。あの手紙に感化された可能性もないではない」
そう言うとモディーハンナは踵を返し、焚書官たちの部屋から出て行く。向かう先は当然ノンネットの部屋だ。グリュエーは自身の浅はかさを呪う。このままでは魔導書が見つかり、ノンネットは明確な裏切り者となってしまう。聖女になるどころか、処刑もありうる。
どうしたものか、逆転の一手が一つも思い浮かばないグリュエーは伸るか反るかモディーハンナの手をこじ開けて飛び出した。
モディーハンナの鬼火が青々と燃え上がり、獰猛な魔法がグリュエーに飛び掛かってくる。グリュエーは必死に手紙をくねらせて逃げる。黒い影が蛇のように伸びてきて、床板が捲れあがって立ちはだかる。喇叭のような音が高らかに鳴ったかと思うと、通路のあちらこちらから僧兵たちが飛び出してきた。
「西へ走れ、グリュエー」という声がどこからともなく聞こえた。「そっちは南だ」という声が続いて聞こえる。
「分かんないよ! 右とか左とかで言って!」と正体も分からない声の主にグリュエーは文句をつける。
誰とも分からない声の主だが、今この場で他に縋れるものはなく、信じる他ない。
「右! そっちは左だよ! ああ、もう、なんてこった。歌は聞こえるか?」
グリュエーは階段を転げ落ちながら耳を澄ます。どこか遠くで澄んだ声の主が感情豊かに歌っている。グリュエーの今の状況とは遠く離れた落ち着いた歌だ。
「聞こえる!」
「そっちの方向に逃げろ! 侍る者! 回収作戦はやめだ! ばら撒け!」
他の誰かとの会話が混じり合っているようだ。どうやらノンネットの元へ向かわせた使い魔たちが協力して逃がしてくれているようだ。
グリュエーは一度中庭に出て、歌の聞こえる方向、西側の門へと急ぐ。すると空から無数の紙が降って来ていることに気づいた。初めは封印かと思ったが、よく見ると羊皮紙であり、つまり囮だ。地を這うファボム写本の抜粋集が紛れるにはうってつけということだ。
舞い踊る紙の中、閉ざされた門へと至ったグリュエーは心の中で尋ねる。
「ねえ、伝える者だよね? どうしてここに? ユカリたちが助けに来てくれたの?」
「いや、違う。以前の襲撃はもう知ってる? その際に僕が機構に奪われたってだけのことだよ。助けてくれたのは貴女だ」
どうやら耕す者に預けた封印の一つらしい。
「なるほどね。ところで門が閉じていて出られないんだけど」
「今方法を考えてます。ところで他の何かに乗り移ることは?」
「駄目。できない」
本当は出来るが、グリュエーもまた囮なのだ、ノンネットへの疑いを逸らすための。この抜粋集は行方不明になった方が良い。
グリュエーは焦り、何とか出られそうな隙間はないかと探すが見つからない。その内、人々が集まってきて、他の羊皮紙同様に身動きが取れなくなる。
「門を開けろ!」という荒い声がどこからか聞こえた。モディーハンナらしからぬモディーハンナの声だ。そして実際に門が開き始めた。
使い魔の誰かが声真似をしたに違いない。とはいえ、策謀はすぐにばれたらしい。訂正の命令が砦に飛び交う。しかし紙片のグリュエーが門を出るのには十分な隙間が空いた後のことだった。
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