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その言葉が落ちた瞬間、世界の音がすべて消えた気がした。
医師の口から発された一言に、思考が一瞬、硬直した。
(……聞き間違い、だよな)
「す、すみません。今……なんて言いました?」
喉が詰まり、声が妙に浮ついていたが、それでもなんとか聞き返した。
「……白鳥さんは、後天性オメガです」
医師は淡々と繰り返し、こちらにカルテを向けてきた。
血液検査の数値が並んだその紙面には、確かに『後天性オメガ』の文字が何度も記されていた。
体内を冷気が駆け抜けた気がした。
「……は?」
思わず間の抜けた声が口をついて出る。理解が追いつかない。
後天性オメガ? いや、俺は——
「お、俺、中学のときにベータって診断されてますよ?」
「ええ。ただ、ごく稀に、成人後に第二性が変わるケースがあります。遺伝や環境因子によって。〝後天性オメガ〟という分類も、最近では医療的に定義されつつあります」
そこから先は、もう、遠くからラジオの音でも聞いているようだった。
〝オメガ〟
俺が?
いまさら、どうして——。
「詳しい検査は必要ですが、今日の体調や発熱、感覚の過敏さを総合すると、可能性は極めて高いと考えられます」
「……うそ、だろ……」
気づくと、手のひらが細かく震えていた。声が出ない。
ずっとベータとして生きてきた。誇りがあるわけじゃないが、地道に働いて税金も納めてきた“普通”のカメラマンとしての人生だった。
設計図に、こんな変化は一ミリもなかった。
「そんな……」
反射的に頭を抱える。
目の前の現実が、あまりに唐突すぎて、言葉が見つからない。
いきなり“オメガです”なんて言われて、冷静でいられるはずがない。
「驚くのも無理はありません」
医師は少しだけ目を伏せたあと、落ち着いた口調で続けた。
「でも、これは現実です。突然変異に近いものですが、気を落とさないでください」
それでも、不安の波は引かない。
「……オメガってことは……俺、発情期とか、抑制剤は……必要になるんですよね?」
絞り出すように尋ねると、医師は「もちろん」と頷いた。
「念のため、オメガ専門の内科クリニックの案内もお渡しします」
「ありがとうございます……」
それでも、安心できたわけじゃなかった。
「後天性オメガは非常に珍しいです。私自身も、今回が初めてのケースです。何か不安なことがあれば、いつでもご相談ください」
俺は黙って頷いた。
だが、すぐに別の不安が胸をかすめる。
——社長は“オメガお断り”の堅物と噂を聞いたことがある。
もしバレたら?
ただでさえ、職場はαばかりだ。
αの中には、オメガの発情期を“欲望のスイッチ”くらいにしか思ってない奴もいるって聞いた。
こんな環境で、俺が“突然変異のオメガ”だなんて知られたら、何をされるかわかったもんじゃない。
冷たい恐怖が背筋を這い、俺は意を決して口を開いた。
「ひとつ、お願いがあるんですが……」
「はい、なんでしょう?」
「俺がオメガだってこと、周囲には黙っていてもらえませんか?」
「全員αの職場で、Ω嫌いの社長にバレたら……クビになるかもしれません。それだけは、嫌なんです」
情けないくらいに、声が震えていた。
けど、それくらい切実だった。
「もちろん、医療者としての守秘義務は守ります」
「ただ、いずれ対応が必要になる場面も出てくるでしょう」
そう約束してくれたことで、ようやく少しだけ、気が楽になった。
「ただ、白鳥さんも言ったように——特に〝|番《ツガイ》〟の問題については、早めに考えておいた方がいいでしょう」
〝番〟
その言葉ひとつで、思考がグラリと揺れた。
オメガにとって、最も繊細なキーワード。
医師は一拍置いてから、静かに頷いた。
「抑制剤を出します。ですが、効果には個人差があります。生理痛の薬のようなもので、効かない人には効かない。だからこそ、きちんと専門機関にかかってください」
「……わかりました」
俺は頷くしかなかった。
抑制剤を処方してもらい、看護師に渡された水で一錠飲むと、少しだけ身体が軽くなった気がした。
さらに三錠を手渡され、医務室を出る前に深呼吸して一礼した。
(とりあえず、大丈夫だ。仕事に戻ろう)
自分の中で、確実に何かが変わり始めている。けれど、まだ実感はない。
今はただ、仕事が優先だった。
スタジオに戻ると、テオがこちらを見て言った。
「遅い。……ほら、再開するぞ」
「すみません、すぐに」
いつものように、カメラを構える。
「翼さん、お身体は大丈夫なんですか?」
マネージャーの成瀬さんが気遣ってくれる。
「はい、少し貧血っぽかっただけで……今は大丈夫です」
適当な言い訳を笑顔で返した。
嘘をついたことに、胸がざわつく。
(でも、仕方ない。気づかれないためには)
テオのすぐそばで、カメラマンでいるために。
俺はただ、シャッターを切ることに集中した。
鼓動はうるさいほど早く、手のひらには冷や汗。
ファインダー越しの指先が、わずかに震えていた。
テオの完璧な美しさが、いつもより遠く感じられた。
撮影が終わると、機材を急いで片付け、挨拶だけしてスタジオを後にする。
家への帰路をタクシーで進みながら俺は考えていた。
窓に映るネオンの中の暗闇
いつもなら、ついカメラを構えて写真を撮ってしまいたくなるほど綺麗に感じるのに
今日だけは違った。
3秒以上見ていたら、吸い込まれそうなほどの闇
俺は、Ωになった。
それだけのことなのに
どうしてこんなに、世界が変わって見えるんだろう。
一般的な地位から
底なしの低い地位に下ろされた
と言ったら、口が悪いが
実際、|Ω《オメガ》差別はネットの誹謗中傷と同じぐらい当たり前に存在する。
まさか自分がそんなΩになるなんて
これからは、あの特性のせいで、就職も結婚も、人としてまともに扱ってもらえないかもしれない。
能力があっても、Ωというだけで…
そんな不安が、頭から離れない。
それでも、俺は会社を辞める気はさらさらない。
あんな美を擬人化したような被写体を近くで観察できる場所はあそこしかないだろうし
テオを撮るようになって5年が経ちそうなところ
その腕は本人にも認められるほどで
この仕事に火がついたのは
『お前の撮り方、いいな。』
と言われたときからだった。
だからこそ
八神天旺をこれからもレンズに収め続けたいというひとつの執着でもあるのかもしれない。