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あれから。
僕は葵につきっきりで勉強を教えた。今度はウサギの絵を描いたり、人生のお勉強やらをしたいなどと駄々をこねることはなかった。
教科書と、それと僕に対して、真剣な眼差しでしっかりと向き合ってくれた。真面目に。そして真摯に。
これで赤点を取ってしまったら仕方がないと、そう思える程に。
* * *
「ふうー、さすがに疲れたね」
僕は両手を絡ませて、それをそのまま天井に掲げるようにして背伸びをする。三時間ノンストップで勉強を教えるというのも、案外疲れるものだと思いながら。
「葵もお疲れ様。あれだけ集中しねたらやっぱり疲れたでしょ?」
「……………………」
声をかけたんだけど、無言。
葵はローテーブルに突っ伏したまま動かなくなってしまった。『返事がない。ただの屍のようだ』って感じ。人間って、限界の限界を迎えるとこうなっちゃうんだ。
部屋に掛けてある時計を確認した。いつの間にか、もう二十二時を過ぎていた。あのウサギを描きまくってた時間が長すぎたんだよ。ほんと、もっと早く気付くべきだった。
とりあえず。僕はお風呂をお借りすることにしよう。明日も学校があるし、そろそろ寝る準備に入った方がいい。
「ねえ葵? 申し訳ないけどお風呂をお借りするね。それで、僕の寝巻きなんだけど――」
そこまで言ったところで、僕は袖口をギュッと掴まれてしまった。ローテーブルに突っ伏したままの葵に。
「……うび」
「え? なんて言ったの? 声が小さくて聞き取れなかったんだけど」
「ご……ご褒美、前払いしてもらえない……かな」
一言。そのたった一言で、僕の心臓が早鐘を打った。それだけじゃない。心拍数が高くなっているのか、胸が激しくバクバクとしている。
「ご、ご褒美はあれじゃん。期末試験で赤点を取らなかったらって話だったじゃん」
「そうだけど……だから、前払い」
言葉少なに返事をする葵だった。テーブルに突っ伏したままの理由がやっと分かった。疲れもあるだろうけど、それ以上に見られたくないんだ。今、真っ赤になっているであろう自分の顔を。
「そ、そう言われても……」
「憂くん。ちょっと待ってて」
僕に顔を見られないようにしながら、葵は一度自分の部屋を出ていった。その間、僕は何度も深呼吸を繰り返し、少しでも気持ちを落ち着けることに集中して、そして考える。
この後の、僕。そして葵のについて。
「も、待ってきた……」
「は? ちょ……あ、葵? 寝巻きは分かるんだけど、なんでそんなものを持ってるわけ?」
「この前、憂くんのお母さんから一緒にお借りしてきたの」
「母さんさあ……。そういうことはちゃんと僕に報告しておいてよ。いや、本当に」
葵が手に持っていたのは僕の寝巻き。そして、学校のプールの授業で履く男子用のスクール水着だった。
「ちなみにさ。母さんになんて言ってそれ借りてきたの?」
「憂くんがプールの授業で履く水着を忘れちゃったみたいだから取りに来ました、って言ったら渡してくれたの」
母さん! 女子高生に簡単に騙されてどうするのさ! 不自然極まりな……くはないか。親切な幼馴染ねえくらいにしか思わないはず。それくらい抜けてるし、僕。
「お願い、憂くん。前払いを……。なんだったら、利息を付けてお返ししますので」
「利息って……。どんなふうにそれをつけようと考えてるの?」
それを聞いて、葵は恥ずかしそうに顔を赤らめた。一体、どんな利息を付けようと考えてたのさ。不安で仕方がないよ。
でも――
「お願い、憂くん。もしご褒美を前払いしてくれたら、私、もっと頑張れると思うの」
葵の柔弱な表情を見ていたら、何も言い返すことができなかった。
柔弱。弱気。寂しさ。憂い。色んな感情が入り混じった、葵の表情。断るに断れない。恋人だからだろうか。それとも、これが父性というやつなのだろうか。僕自身も自分が抱いている感情を理解できていない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
それは、葵の望みを叶えてあげたいという、心の底から湧き出てくる強い想いを抱いているということだ。
「――分かったよ。いいよ、前払い」
「本当!? 本当に叶えてくれるの!?」
「男に二言はない……くはない」
「えー、なんでー。二言はないってはっきり言ってよー」
「はっきりとって言われてもなあ……。というかお前、さっきよりずっと元気になってない? 前払いする必要ないんじゃない?」
「ご、ゴホッゴホッ。急に持病のアレが」
持病のアレってなんだよ。お前、これまで一度も風邪で欠席したことがない健康優良児じゃないか。この前のだって無理やり僕が学校休ませただけだし。
「はあー……。分かった。分かりました。その代わり! 絶対に。ぜーったいに葵も水着を着てくること! それだけは約束してよね!」
「はい……(小声)」
「なんでそんなに声が小さいのさ……」
『第26話 葵と秘め事【1】』
終わり