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眠狂四郎
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「な……なぜだ……。右翼は、なぜ敗れた!」
後方から突如現れた敵騎兵を目にし、ワロアは動揺を隠せなかった。
挟撃された左翼騎兵は、たちまち総崩れとなる。
「総司令、こちらです!」
親衛騎兵がワロアの馬首を返した。
わずかな供回りを連れ、ワロアは戦場を離脱する。
その退却は、結果として総司令官の逃亡となった。
二つ目の異変が、中央の重装歩兵軍へ襲いかかりつつあった。
両翼を守っていたグラン軍の騎兵は、すでに壊滅。
左右にあった敵軍の重装歩兵は大きく迂回し、重装歩兵の側面へ襲いかかる。
さらに、中央で後退を続けていた敵歩兵は、
いつしか最初とは逆の三日月のような陣形を形作っていた。
前進を続けるグラン軍は、その三日月の内側へ深く踏み込んでいく。
重装歩兵は、自ら前進したことで最も脆い側面をさらしていた。
そして――。
三日月に張り出していた敵軍は、後退を続けた果てに、
いつしかグラン軍を包み込む半円へと変わっていた。
グラン軍は、自ら罠の中へ踏み込んでいたのである。
ミルキウスは、その中央の重装歩兵軍の中にいた。
「わかっていたはずなのに……。」
「わかっていたはずなのに……。」
急な方向転換などできない。
密集した重装歩兵のファランクスは、自らの隊列によって兵を押し潰し始めていた。
前へも退けず、横へも逃げられない。
「父上……。」
ミルキウスは唇を噛み締める。
「やはり、あなたが正しかったのか……。」
先の戦いで命を救われたミルキウスは、ファービーと親子の契りを結んでいた。
養父の教えは、持久こそが勝利への道だというものだった。
それでもミルキウスは、雪辱を果たすため、この決戦へ身を投じた。
そして今――。
父の言葉が、現実となろうとしていた。
三つ目の異変が起きた。
敵右翼を撃破した騎兵隊が、大きく戦場を迂回する。
そして――。
グラン軍重装歩兵の背後へ襲いかかり、
バルカ軍中央の歩兵は後退を止め反撃に転じた
包囲は、完成し、勝敗は、この瞬間に決した。
あとは、包囲の中に閉じ込められた兵たちが、
一人また一人と討たれていくだけだった。
虐殺は半日にわたって続き、死傷者は六万人を数えた。
戦場には、幾重にも積み重なった亡骸だけが残る。
グラン人の身分を示す印章付きの指輪。
その回収は、戦いの翌日から始めても、二日を費やしてなお終わらなかったという。
グラン軍後方の本陣守備隊は、なお数度の抵抗を試みた。
だが、本軍壊滅の報が届くと、もはや戦う術はない。
やがて武器を捨て、降伏。
そのまま捕虜となった。
この戦争を積極的に推し進めた元老院もまた、大きな代償を払った。
戦死した議員は八十余名。
これは、元老院定員のおよそ四分の一にあたる。
グラン王国は未曾有の敗戦と、その後始末に追われることとなる。
ワロアは、生き残った兵をまとめ、王都へ帰還した。
凱旋門近くでは、市民と兵たちが激しく言い争っていた。
「何事だ。」
ワロアは力なく尋ねる。
「総司令を出せと、群衆が騒いでおります。」
「……わかった。私が行こう。」
ワロアが群衆の前へ姿を現した、その時――。
一つの石が飛んできた。
やがてそれを合図に、無数の石つぶてが雨のように軍へ降り注ぐ。
「おのれっ!」
親衛兵たちが剣を抜き、市民へ向かおうとした。
「ならぬ!」
ワロアの一喝が響く。
その声に、群衆も兵も動きを止めた。
「私は今から、ライナー王へ敗戦を報告せねばならぬ。」
「どうか……道を開けていただきたい。」
頭から血を流しながら、ワロアは静かに頭を下げた。
ライナーはワロアの報告を静かに聞き終えると、
傷の手当てを受け、しばらく養生するよう命じた。
ワロアが退室すると、マエクスが静かに歩み寄る。
「大変なことになりましたな。」
「……うむ。」
「元老院は、ファービー殿を正代表に推しております。」
「さすがに、奴らも身に染みたのだろう。」
「副代表ですが……。」
ライナーは一通の書状を机へ置いた。
マエクスはそれを手に取り、目を通す。
「……マルス?」
「ガラリアのチェルシーが送ってきた男だ。」
「現地の部族長を一騎打ちで討ち取ったという。」
「豪の者、ですか。」
「これ以上、バルカの好きにはさせておけまい。」
「御意。」
カンナルの敗戦がもたらした衝撃は、凄まじかった。
ナガグツ半島南部の諸都市は次々と離反し、
とりわけ最大の同盟国シラクスは、バルカ陣営へ加わる。
戦術的勝利を積み重ねてきたバルカの戦略は、ついに実を結んだかに見えた。
だが――。
一つだけ、計算どおりにならないことがあった。
グラン王国は講和を拒否し、なお戦い続けることを宣言したのである。
バルカ軍では、王都への進軍を求める声が日に日に強まっていた。
とりわけマハルの主張は強硬だった。
「今こそ王都を衝くべきです。」
熟慮の末、バルカは静かに結論を告げる。
「再びカンパルニア平原にむかう。」
「新たに加わった諸都市を足掛かりに、まず南部の支配を固める。」
天幕の空気が凍りつく。
「あなたは戦には勝てる。」
「だが、勝った戦を生かすことを知らない。」
失望を隠さぬまま、マハルは天幕を後にした。
静寂の中、バルカは誰にも聞こえぬよう、小さく息を吐いた。
コメント
1件
みぅです🤍🥀 第59話、読み終えました…。 カンナルの戦い、すごかったですね。重装歩兵が自らの陣形で押し潰されていく描写、ミルキウスが「父上…」と呟くところ、胸が締め付けられました。わかってたのに、止められなかった無力感。 それに、ワロアが市民から石を投げられても「道を開けてほしい」と頭を下げるシーン…。勝者も敗者も、それぞれに重いものを背負ってるんだなって思いました。 バルカの「勝った戦を生かすことを知らない」という言葉も、深く刺さりました。勝っても孤独なんですね…。 次が気になります。