第三章:本能の境界線
翌日、いつもと変わらないふりをして現場に入ると、最初に目が合ったのはテヒョンだった。
「…顔色、悪くない?」
「そう?メイクしてないだけだよ」
軽く笑って返すミンジュに、テヒョンは眉をひそめたがそれ以上は何も言わなかった。
彼もまたSクラスのDom。それでも、ミンジュの“真実”には気づいていないようだった。
──まだ、持ちこたえられる。
そう信じて、いつも通り仕事をこなす。だが、ふとした瞬間に視線を感じる。
スタジオの隅、トレーニングルームの入り口、車の窓越し。
──必ず、あの眼差しがそこにある。
「ヌナ、コーヒー、これどうぞ」
何でもない顔で近づいてきたジョングクが、ボトルを差し出してくる。
「ありがとう」と受け取るが、指が少し触れただけで、また心拍数が跳ねた。
「無理に飲まなくてもいいですけど…ヌナ、最近ちゃんと食べてないですよね」
「…見てたの?」
「俺、けっこう見てますよ?ヌナのこと。気になるから」
にっこりと笑ったその表情が、ひどく無邪気に見えて、逆に怖かった。
「ジョングガ…あのね、これ以上深入りしないで」
「なんでですか?」
「あなたには関係ないから」
ミンジュがそう言うと、ジョングクの表情が一瞬だけ翳った。
「俺のこと、避けてる理由って…もしかして、バースのことですか?」
──心臓が跳ねた。
「ちが──」
「ヌナがSubなの、もう分かってますよ。俺、昨日ので確信しました」
そう言ったジョングクの瞳は、いつもの年下の後輩のものではなかった。
SSクラスのDomが、本能で“つがい”を察知した時の目──それだった。
「でも、ヌナが嫌がるなら、無理には近づきません。…ただ」
「……ただ?」
「俺からは、もう見ないふりはできません。
ヌナの匂い、ヌナの呼吸、俺の体が反応してる。止められないんですよ。どうすればいいか、教えてください」
その声には、支配ではなく“苦しさ”が滲んでいた。
ジョングクも、戦っていた。
自分の本能と。ミンジュという存在に“惹かれてしまったこと”に。
「ジョングガ……」
言葉が出なかった。
代わりに喉の奥が焼けるように熱くなって、なぜか涙が出そうになる。
「俺、ヌナが嫌じゃなければ…ただ、隣にいるだけでもいいんです。
だから、もう…そんなふうに自分のこと、全部隠さないでください」
ミンジュの中で、何かがひび割れた。
それは理性か。自制か。
あるいは、心を縛っていた「恐れ」そのものかもしれない。