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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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その晩、真柴さんは、いつもの時刻に屋敷へ戻ってきた。
私は、厨房で、ミモザで見たことを、冬馬様に全部話した。
分家の御当主たちの膝に渡った、厚い封筒。弁護士の鞄に消えた、薄い封筒。九月一日。
冬馬様は、作業台に両手をついて、黙って聞いていた。
「来訪帳を、警察へ持っていくことは、できませんか」
私が言うと、冬馬様は、首を横に振った。
「あの一行だけなら、宗介は、書き忘れたのを後で書き足しただけだと言う。それで済む。警察は、妻殺しの侯爵より、三十年仕えた家令の言い分を聞く」
冬馬様の声は、静かだった。
「宗介が、何をしようとしているのか。それがわからないうちに動けば、逃げられる」
小夜子様の葡萄酒を、二年も黙って抱えていた人の言葉だった。
翌朝も、何ひとつ変わらなかった。
真柴さんは、玄関で冬馬様に帽子を差し出し、渡り廊下で私に頭を下げた。
「奥様、おはようございます。昨日は、良いお休みをいただきました」
それだけだった。
銀座のことも、洋装の女のことも、何も言わなかった。
何も言われないことが、いちばん怖かった。帯の中の頁に、何度も、手のひらを当てた。
*
八月二十三日の朝、冬馬様が、厨房で卵を割りながら言った。
「今日は、会館で午餐会がある。婦人同伴の集まりだ。君も来い」
「私が、ですか。そういう席は、いつも」
「わかっている」
冬馬様は、割った卵を、菜箸でかき混ぜた。
「宗介と、この家に、君を二人きりで置いておきたくない」
菜箸の音が、いつもより速かった。
卵焼きは、少しも焦げなかった。
冬馬様は、皿の上のそれを見下ろして、なぜか、少し不満そうな顔をした。
「……焦げないと、君は二切れしか食べない」
「焦げていても、二切れです」
「焦げていると、君は、私の皿の分まで取る」
言い返せなかった。冬馬様の口の端が、ほんのわずかに持ち上がった。
私は、鎌倉の舞踏会で着た、白藤色の絽の訪問着を出した。帯には、銀の活字の帯留め。
そして、この前、冬馬様が選んでくれた淡い藤色の帯締め。
帯の芯には、大正七年五月の頁が、縫いこんである。
*
日比谷の華族会館の玄関を入ると、右手に、受付の机があった。
黒い袖カバーの年寄りの書記が、冬馬様を見て、立ち上がった。
「御前。先日の帳面は、お手紙の御指図の通り、封をいたしまして、金庫に納めてございます」
「手数をかけた」
机の上に、筆と硯が並んでいた。新しい来訪帳が、開いて置いてある。
二年前の八月、この机の前に、誰かが一人で立った。人の目を盗んで、筆ではなく、自分の万年筆で、隙間に一行を書き足した。
私は、硯の黒い水面から、目を逸らした。
午餐会は、二階の広間だった。
白い卓布の長い卓に、銀の食器が並び、天井の扇風機が、ゆっくりと回っている。
奥様方の視線が、私の上を、さっと撫でていった。
扇の陰で、囁く声がした。あれが、三人目。まだ生きておいでなのね。
冬馬様は、何も聞こえないふりをして、私の椅子を引いた。
向かいの席の、白髪の老婦人だけが、私に微笑みかけてくれた。どこかの伯爵家の御隠居様だという。
「あなたが、慈善診療会の奥様ね。あの壇上の。私、あれから、主治医の書く字を、ちゃんと読むようになりましたのよ」
私は、頬が熱くなって、頭を下げた。
冷たいコンソメが運ばれてきた。私は、匙で一口すくった。この家の外でなら、冬馬様の言いつけには、背かない。
けれど、二口目は、喉を通らなかった。
*
扉が、乱暴に開いた。
給仕が慌てて止めようとするのを押しのけて、男が三人入ってきた。
先頭の一人は、古びた外套の襟を立て、帽子を取らなかった。
鬼塚警部補だった。
広間が、水を打ったように静まった。
警部補は、長い卓のあいだをまっすぐに歩いてきて、冬馬様の椅子の後ろで止まった。
「久遠寺侯爵」
くぐもった、低い声だった。
「警視庁まで、御同行願います。宇佐美恭平殺害の件で、お訊ねしたいことがありましてな」
奥様方の誰かが、小さく悲鳴を上げた。
冬馬様は、ナプキンを畳んで、卓に置いた。
「理由を、伺いましょう」
「宇佐美の遺書が、出ました」
警部補は、外套の内から、一枚の紙の写しを出した。目を落とし、平らな声で読む。
「拙者儀、久遠寺侯爵ノ命ニヨリ、大正九年一月、侯爵夫人小夜子ノ死因ヲ偽リ記セリ。侯爵ハ今ナホ拙者ヲ疑ヒ居ラレ候。口ヲ封ゼラルルヤモ知レズ。万一ノ折ハ、此ノ書ヲ以テ証トセラレタシ」
広間のあちこちで、息を呑む音がした。
「邦文タイプの打ち物です。日付は、大正十一年十一月十日。宇佐美が死ぬ、二日前ですな」
「誰が、それを」
冬馬様の声は、少しも揺れなかった。
「届け出たのは、村瀬という弁護士です。依頼人は、久遠寺将臣」
私の指先が、冷たくなった。
「宇佐美から、生前に預かった封書だそうでしてな。借金の書類を整理しておったら、出てきたと」
鼈甲縁の眼鏡。膝の上の書類鞄。
宛名のない、白い、細長い封筒。
真柴さんが、両手で差し出し、あの弁護士が、両手で受け取った。二日前の、午後の二時に。
「やはりな」
卓の向こうで、どこかの伯爵が、聞こえよがしに呟いた。
「三人目まで、よくもったものだ」
冬馬様は、その声のほうを見もしなかった。
「警部補。妻は」
「奥さんには、何の嫌疑もかかっとりません」
警部補は、私のほうを見ずに答えた。
冬馬様は、椅子を引いて、立ち上がった。上着の釦を、一つずつ留める。
それから、私のほうへ向き直った。
右の手袋を、外した。
人前で、この人が手袋を外すのを、私は初めて見た。
素手の指が、私の手を取った。手のひらに、小さく冷たいものが、押しこまれる。
書斎の、鍵のかかる引き出しの鍵だった。
「君の目を信じる」
私にだけ聞こえる声だった。
灰色がかった黒い目が、ほんの一瞬、私だけを見た。それから、冬馬様は手袋をはめ直し、警部補に向かってうなずいた。
「参りましょう」
警部補は、冬馬様の腕に手をかけなかった。
並んで扉へ向かいながら、私の横で、ほんの少しだけ足を緩めた。
「上からのお達しでしてな」
苦い顔だった。噛み潰した煙草の味でもするように。
「私の手帳は、まだ閉じとりません。……奥さん、どこにおられるかだけは、いつでも」
それだけ言って、警部補は、冬馬様の背中を追っていった。
黒い三つ揃いの背中が、扉の向こうへ消えた。一度も、振り返らなかった。
*
広間に、ざわめきが戻ってきた。
私は、握った手を、卓の下でそっと開いた。
真鍮の、小さな鍵。冬馬様の手の温みが、まだ残っていた。
あの引き出しの中にあるものを、私は全部知っている。帝大の分析書。宇佐美先生の懐から私が抜いた、鉛筆の溝のある偽の手紙。タキさんの握っていた封蝋の欠片。小夜子様の日記と、擦り出し。鎌倉の電報の送達紙。
一年と四か月、二人で拾い集めてきた、紙と、欠片。
冬馬様は、それを、私に預けていったのだ。
奥様方の目が、今度は遠慮なく、私の上に集まった。
私は、鍵を握りしめて、立ち上がった。誰にも会釈せずに、広間を出た。
階段を下りる足が、自分のものではないようだった。
玄関の大きな扉を出ると、夏の日差しが、白く目を刺した。
会館の車寄せに、警視庁の黒い自動車が走り去っていくのが見えた。
その向こうに、もう一台。
見慣れた、久遠寺家の自動車が止まっていた。
後ろの扉が、開いていた。扉の横に、灰色の背広の人が立っていた。
帽子を胸に当て、深々と、頭を下げている。
いつから、そこにいたのだろう。冬馬様が連れていかれることを、まるで、前から知っていたように。
真柴さんは、顔を上げると、目尻に深い皺を寄せた。
「奥様、お屋敷へ」
穏やかな声だった。
「この先は、私が、すべて取り計らいます」
コメント
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いやもう、第64話、息を呑み通しでした……! 冬馬様が人前で手袋を外して、千代さんの手に鍵を握らせる場面、あの一瞬の信頼の重さに胸が熱くなりました。「君の目を信じる」って、あの言葉、良すぎます。そして最後の真柴さんの「この先は、私がすべて取り計らいます」…穏やかなのに怖い。帯に縫い込まれた頁が、どう使われるのか、続きが気になって仕方ないです。本当に素晴らしかったです、ありがとうございます。