テラーノベル
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自動車の中で、真柴さんは、前の席から一度だけ振り返った。
「奥様、どうぞ御心配には及びません」
眼鏡の奥の目が、やわらかく細められた。
「この家のことは、すべて、私が存じておりますので」
私は、膝の上で、鍵を握った手を、もう片方の手で包んだ。
窓の外を、日比谷の濠が流れていった。
鳥居坂の屋敷の門の前には、もう人だかりができていた。
鳥打帽の男たちが、門の格子にしがみつくようにして、中を覗いている。自動車が近づくと、一斉にこちらを向いた。
白い光が、ばしっと弾けた。マグネシウムを焚いたのだ。
「侯爵夫人! 侯爵は、医者を殺したんですか!」
運転手が警笛を鳴らし、門番が人垣を押し分ける。門が閉まる直前、何かが塀を越えて飛んできた。
がしゃん、と硝子の割れる音がした。
洋館の、一階の窓だった。
*
日が暮れてから、警視庁の刑事が二人来た。
書斎を、調べるのだという。
鬼塚警部補の姿は、なかった。書斎の戸口に、真柴さんが、灯りを持って立っていた。
刑事たちは、書棚の本を一冊ずつ抜き、机の上の書類をめくり、それから、右の引き出しに手をかけた。
「鍵が、かかっとるな」
「御前は、その鍵を、肌身離さずお持ちでございました」
真柴さんが、静かに言った。
それから、私のほうへ、ゆっくりと目を向けた。
「恐れ入りますが、奥様。もしや、お預かりでは」
帯の中で、鍵が、急に重くなった。
渡さなければ、刑事たちは、引き出しをこじ開けるだろう。開けた中身は、どのみち、この部屋の誰かの目に触れる。
そして、刑事たちが帰ったあと、この屋敷に残るのは、私と、真柴さんだ。
この家の引き出しより、鬼塚警部補の手のほうが、まだ安全だった。
私は、帯から鍵を抜いて、刑事に渡した。
引き出しが開いた。
刑事が、中のものを、一つずつ机の上に並べていく。
帝国大学の名入りの用箋。藤の透かしの薄い便箋と、鉛筆の擦り出し。潮で波打った、電報の送達紙。宛名のない封筒と、厚手の罫紙。
それから、半紙に包んだ、小さなもの。
刑事が半紙を開くと、親指の爪ほどの、赤い蝋の欠片が、手のひらの上に転がった。
「何だ、こりゃあ」
戸口で、灯りが、かすかに揺れた。
私は、そちらを見ないようにした。見なくても、わかった。
真柴さんの目が、赤い欠片の上で、止まっていた。
それから、刑事が封筒から罫紙を抜き出し、冬馬、と書かれた墨の字を灯りにかざしたとき、真柴さんの白い指が、懐中時計の鎖を、ゆっくりと一巻き、指に巻いた。
刑事たちは、何もかもを風呂敷に包み、封をして、持っていった。
*
刑事たちを門まで送ったあと、真柴さんは、洋館の玄関に戻ってきた。
「奥様。今宵より、洋館でお過ごしいただきます」
いつもと同じ、穏やかな声だった。
「記者どもが、いつ塀を越えてくるかわかりません。石を投げる者もおります。奥様の御身の安全のためでございます」
「私は、警視庁へ参ります。旦那様に、お会いしたいのです」
「なりません」
真柴さんは、首を横に振った。
「侯爵夫人が警視庁の門を叩いたと、明日の新聞に載れば、御前のお為になりません。大奥様は、心労でお倒れになりました。今は、私が、この家をお預かりしております」
真柴さんは、深々と頭を下げた。
そして、洋館の玄関の扉を、外から閉めた。
鍵の回る音がした。
その夜のうちに、渡り廊下の扉にも、和館の側から錠が下ろされた。
翌朝には、分家から寄越されたという若い衆が二人、梯子をかけて、一階の窓の鎧戸を、外から釘で打ちつけていった。
お鈴は、その日のうちに暇を出された。
「奥様に、余計なことをお耳に入れますので」
朝の膳を運んできた真柴さんが、そう教えてくれた。
膳は、日に三度、運ばれてきた。
真柴さんが自分で洋館の鍵を開け、応接間の卓に置いていく。白い飯。焼いた魚。冷やした胡麻豆腐。
私は、一度も、箸をつけなかった。
下げに来るたびに、真柴さんは、手つかずの膳を見下ろして、悲しそうに眉を下げた。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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「奥様、お体に障ります」
「旦那様の、言いつけですので」
焼き魚の匂いが、応接間に残った。
この膳に、毒が入っているとは限らない。家令が、侯爵夫人を、こんなにわかりやすく殺すはずがない。
それでも、箸は取れなかった。小夜子様の葡萄酒も、宇佐美先生の茶碗も、誰も疑わない器に入っていたのだ。
冬馬様がいなければ、この家で、私の食べるものを用意する人は、誰もいない。
厨房の合鍵だけは、帯の中にあった。
鍵を開けて、中に入る。冬馬様が出かける朝に満たしていった水甕と、錫の茶筒と、砂糖の壺。ビスケットの缶の底に、三枚だけ残っていた。
閉じこめられた晩に、一枚と半分、食べた。
翌日の昼に、残りの一枚と半分を、食べた。
その夜には、水甕の水を飲むたびに、胃の底が、きゅうと鳴った。
二階の自分の部屋の窓は、打ちつけられていなかった。けれど、下は煉瓦敷きの犬走りで、飛び降りれば、足を折る。
窓辺に座って、庭の向こうの和館を見ていた。大奥様の居室のあたりだけ、障子に、ぼんやりと行灯の灯りが映っている。家令室の窓にも、遅くまで明かりがついていた。
冬馬様は、今、何を食べているのだろう。
警視庁の留置場で、誰が、あの人の食べるものを用意しているのだろう。
*
その夜更け、厨房の窓が、こつこつと鳴った。
鉄格子の向こうに、白い顔が二つ、浮かんでいた。
百合絵様と、篠原さんだった。
「お義姉さま。静かに」
百合絵様が、鉄格子の隙間から、手拭いの包みを差し入れた。中に、卵が四つ、割れないように並んでいる。続いて、小さな布袋。米が、二合ほど入っていた。
「大台所から、こっそり。お米は、あたくしが研いできたのよ。生まれて初めて」
百合絵様の声が、少し震えていた。
「お母様は、本当に寝込んでいらっしゃるの。真柴が、誰もお部屋に入れないの」
篠原さんが、懐から、折り畳んだ新聞を出した。
「今朝の『東都日報』です。御前のことが、一面に」
鉄格子越しの、薄暗い明かりの中で、大きな活字だけが読めた。妻殺しの侯爵、遂に拘引。
私は、新聞を、篠原さんの手に押し返した。活字の欠けを探す気にも、なれなかった。
「百合絵様も、気をつけて」
「明日も来るわ。必ずよ」
私は、ガス焜炉に火を入れた。
銅鍋で米を炊き、冬馬様の卵焼きの鍋に、卵を割った。砂糖を、冬馬様がいつもするように、多めに入れる。
菜箸で、手前に巻いていく。
冬馬様の手つきを、思い出しながら。
火が、強すぎた。
甘い匂いが、焦げた匂いに変わった。慌てて火を止めたときには、卵焼きの片側が、黒く焦げていた。
私は、焦げたまま、一切れ口に入れた。
苦くて、甘かった。
冬馬様の味がした。
鉄格子の向こうで、百合絵様が、黙って私を見ていた。私は、二切れ目を口に入れて、それから、三切れ目を食べた。焦げたところから、先に食べた。いつも、あの人がそうしていたように。
*
百合絵様たちが帰ったあと、私は、厨房の明かりを消した。
暗い廊下を、二階へ戻ろうとしたときだった。
渡り廊下の扉の向こうで、板の間の軋む音がした。
足音が、扉の前で止まった。
「奥様。お起きでございましょう」
真柴さんの声だった。
私は、息を殺した。
「厨房に、明かりが見えましたので」
扉一枚を隔てて、声は、すぐそこにあった。
「お腹が空いておいでなら、私に仰ればよろしいのに。何でも、お持ちいたしますよ」
しばらく、沈黙があった。
扉の向こうで、懐中時計の蓋を開けて閉じる、小さな音がした。
「奥様は、聡いお方だ」
声の調子が、ほんのわずかに変わった。
「千鶴様も、そうでございました」
いつもの、目尻に皺を寄せた笑い声は、ついてこなかった。
仮面が、ほんの一瞬だけ、剥がれた声だった。
コメント
1件
ひえぇ…第65話、めっちゃ重くてドキドキしたよ😭💦 真柴さんの仮面が一瞬剥がれた「千鶴様もそうでございました」の台詞、ゾッとした…! しかも閉じ込められて鍵も食事も管理下って、どんどん追い詰められていく感がすごかった。でもそんな中で百合絵様と篠原さんが駆けつけてくれるの、ほんと尊いし…! 冬馬様を想って焦げた卵焼き食べるシーンに泣いた😢💔 次どうなるの!?早く続き読みたい〜‼️