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「たこ焼きちゃん、足元は大丈夫なのか。しっかり歩けって」
私をそんな風に呼ぶ失礼な男は彼しかいない。普段であればすぐにも反発して食って掛かるところだが、酔っ払っているせいなのか、今は彼に対して腹も立たず、気にもならない。それよりも、私をいつもからかってばかりいる意地悪な先輩が、どうやら自分の世話をする羽目になっているらしいと思ったら、ひどく愉快な気分になってきた。
「あははは。やだなぁ、先輩、大丈夫ですよぉ」
「こらっ、ちゃんと歩けよ。まったく、困ったやつだな」
矢嶋の腕が、私を支えてくれているのが分かった。申し訳ないと思いながらも、ひどく痛快な気分だった。この際だから、これまで幾度となく彼から受け続けてきた意地悪に仕返ししてやろうと思う。
「先輩はいつも私を不愉快な気分にさせているんですから。その分のお世話くらいはお願いしまぁす。うふふっ」
すぐ頭の上で、大きなため息と文句が聞こえた。
「おい、市川。どうしてこんなになるまで、こいつに飲ませたんだよ」
先輩の声って、ほんとにいい響き――。
彼が言っているのは愚痴だというのに、私はうっとりと頭上の声に聞き惚れる。
そこに市川の困ったような声が聞こえてきた。
「そう言われても……。俺も藍子も、もうやめなって止めたんですよ?だけど夏貴のやつ、俺たちの言うことなんか聞かずにごくごく飲んじゃって。今までこんなの見たことなかったから、びっくりですよ。やっぱり原因はあれなのかなぁ。ぼそっと言ってたんですよね。派遣切りにあうんだ、みたいなこと」
「派遣切り?」
訊き返す矢嶋に、市川はやや声を落として言った。
「こいつ、就職活動がうまくいかなくて、大学出てからはずっと派遣で働いてるんですよ。この二年くらいは同じ会社で働いていたんです。春先に会った時には、正社員になりたいって申し出てみるつもりだなんてこと、言ってたんですけどね」
「そうなのか……。俺はてっきり、彼氏にフラれてやけ酒でもあおったのかと思ったよ」
「フラれた?」
「あぁ、そう言ってた」
「そうなんですか……。色々重なったからなんでしょうかね」
「だとしても、これはひどいだろう」
矢嶋の呆れた声が聞こえ、恐らく抱え直したからだろう、私の体を支えていた彼の手に力が入った。
「いたいっ!」
思わず声を上げて体をよじった私に、矢嶋は慌てて謝った。
「わ、悪い」
彼の謝罪の言葉など、今まで聞いたことがない。
「先輩も悪いなんて言葉、言えるんだ。あははっ」
「まったく……」
「矢嶋先輩。すみませんけど、夏貴の方、頼んでもいいですか?他のみんなはもう帰っちゃいましたし、俺は藍子を送って行くので」
市川が申し訳なさそうに言っている。
「それは構わないけど……」
先輩が困ってる。ちょっとかわいそうかな――。
「だいじょおぶですから。一人でも帰れますって」
そう言った途端、膝ががくっと折れそうになった。
「待て待て。全然大丈夫じゃないだろ」
矢嶋の腕が私をがっちりと支えてくれる。
「先輩、お願いします。二人とも送るのは、ちょっときついんで。みんな別方向だから……」
「仕方ないなぁ」
矢嶋は諦めたように言った後、私に顔を近づけてゆっくりと訊ねる。
「おい、住所は言えるか?」
「言えますよぉ。長町1丁目のマロンアパートですぅ。Aスーパー裏の」
「おい、市川。こいつのアパート、今言ったので間違いなさそうか」
「へぇ、当たってますよ。こんなに酔っててもちゃんと言えるんだな」
苦笑混じりの市川の声に続いて、矢嶋の呆れた声がした。
「まったく……」
彼のため息が私の髪を揺らす。
「それじゃあ、そういうことでよろしくお願いします。あ、先輩、仕事、頑張ってくださいね。俺、先輩のラジオ、毎週楽しみにしてるんですよ。今度リクエストしてみようかな」
「ありがとな。電話でもメールでもどっちでも受け付けてる。じゃあ、また次の飲み会でな。お前たちも気をつけて帰れよ」
まるで今水底にいて、そこから二人の会話を聞いているような気分だ。ふわふわとした心地になってきて、立っていられなくなる。
このまま寝たら、絶対に気持ちいいだろうな――。
「すみませぇん。先輩、よろしくお願いしますぅ」
彼が苦手な先輩だということは、もうどうでもよくなっていた。私はくたりと彼に体を預けた。
「お前、危機感なさすぎるぞ」
呆れながらも困ったような矢嶋の声を聞いたのを最後に、私の記憶はとうとうそこでぷつんと途切れてしまった。
目覚めた時に聞こえたのは、徐々に遠ざかって行く救急車のサイレンの音。部屋の中がぼんやりと明るいのは、開いたカーテンの向こうから、外の街灯の光が薄っすらと差し込んできているためらしい。
「……私、どうやって帰って来たんだっけ」
ぼうっとした頭を両手で支える。もぞもぞと体を起こして、すぐ隣に黒い塊があることに気がついた。びっくりすると同時に、ぼんやりしていた頭と目がたちまちにクリアになる。
何。誰。どういうこと――。
ベッドの上をずるずると後ずさる。壁際に背中を張り付かせ、私は息を殺して目の前の塊の様子をじっとうかがった。ごくりと生唾を飲み込んだ時、黒い山がごろりと動いた。それは人。薄明りの中に見えたその顔に、私は息を飲んだ。目を凝らすまでもなくすぐに分かった。
どうしてここに矢嶋先輩がいるの――。
動揺して私は身じろぎした。その振動がベッドの上を伝わり、彼を目覚めさせた。
「んん……」
目元を手の甲でこするようにしながら、矢嶋がむくりと体を起こした。
「まずい。うっかり寝てしまった」
ぐんと両腕を頭上に伸ばしてから、彼は私の方に顔を向けた。
「――お前も起きたか」
あくびをする彼に、私はおどおどしながら訊ねた。
「あ、あの……。先輩がどうして私の部屋に……」
すると彼は盛大なため息をつき、呆れた声で言った。
「どうしてって、覚えていないのか?お前、かなり酔っぱらってたんだぞ。市川に頼まれてお前を送ってきたんだよ。しかも三階のここまでお前を背負ってさ。この借りは、今度きっちりと返してもらうから」
私はおろおろした。
「あ、あの、どうして私の部屋が……」
「どうして分かったかって?お前が教えてくれたんだよ。あんなに酔っぱらっていても、ちゃんと住所を言えるなんてちょっと驚いた。鍵は、仕方ないからバッグの中を探させてもらった。――ところで、気持ち悪いとかはないか」
矢嶋が身を乗り出して、私の顔をのぞき込む。
こんな風にまともな会話をしたのはたぶん初めてで、戸惑った。いつもは一方的にからかわれて、それに対して腹を立てながら文句を返すだけの、会話とは呼べないようなものばかりだったからだ。
「大丈夫、です」
「ん。それなら良かった」
たったそれだけの言葉の中に、なぜか彼の優しさを感じて動揺する。
「水、飲むか」
「自分でやりますから」
「俺も飲みたいんだ。グラス、勝手に借りるぞ」
矢嶋はさっさとベッドから降りて、キッチンスペースに立って行った。電気のスイッチを見つけて灯りをつける。食器棚を見つけてそこから取り出したグラスに水を入れ、私の元まで運んできてくれた。
「ほら」
「す、すみません。ありがとうございます」
おずおずとグラスを受け取って、水を喉に流し込んだ。ふうっとひと息ついてからグラスを出窓の上に置き、私は正座をしてうな垂れた。
「大変なご迷惑をおかけしてしまったようで……」
怒っているだろうな――。
背を丸めて小さくなり、矢嶋が何か言うのを待った。これはきっと嫌味のオンパレードになるだろうと覚悟する。
「確かに大変な迷惑だった」
彼のため息が聞こえて、私はますます体を縮めた。
「申し訳ありませんでした……」
小声で謝る私に矢嶋は言う。
「いいか。今後はこういう醜態を晒すのは、俺がいる時だけにしておけよ」
「先輩がいる時?」
その意味を考えるように言葉を繰り返す私に、矢嶋は優しい表情を見せる。
「今度からは気をつけろってことだよ」
今まで聞いたことがない優しい声音にどきっとした。しかしすぐに、私が見たものも聞いたものもすべてが幻影で幻聴で、そうでなければ彼の気まぐれに違いないと決めつける。
「じゃ、俺は帰るから」
はっとして矢嶋を見ると、彼はもう玄関に向かっていた。
慌てて私も立ち上がって彼の背中を追い、玄関の灯りをつける。
「今夜は本当にありがとうございました……。このお礼はいずれ飲み会の時にでも……」
本当は礼などしたくはないが、彼に借りを残しておきたくない。
「礼なんかいらないよ。それじゃあ、たこ焼きちゃん、またな」
「だから、先輩。私はそんな名前じゃないんですけど」
私はため息をつきながら、靴を履いている矢嶋の背中に言った。相変わらず変なあだ名で私を呼ぶ彼に、もっと強い口調で文句を言いたい所だったが、今夜は分が悪い。
「名前くらい、ちゃんと呼んでくれませんか」
すると、彼はくるりと私の方を向いた。
「ちゃんと?」
「そう、ちゃんとです」
矢嶋はしばし考え込むように首を傾げていたが、何を思いついたのかにやりと笑った。
「お前の名前、呼んでいいのか」
「当たり前ですよ。あ、でも確認ですけど、先輩、私の名前は知ってますよね」
何を今さらと言いたげに、矢嶋が両の眉根を上げた。
「もちろん知ってるさ。フルネームでな」
「それなら、正しく呼んでくださいよ」
「分かった」
短く言ってふっと微笑んだと思った次の瞬間、彼がいきなり私の耳元近くに顔を寄せた。突然のことに驚き、そのまま動きを止めた私の耳に向かって低い声で囁いた。
「夏貴」
「あ……」
深みのあるその声に鼓膜をくすぐられて、首筋の辺りがぞくぞくした。唇から思わず声がもれてぱっと手で口を覆う。
恥ずかしい……。
矢嶋は私の反応に満足した顔をして、口角を引き上げて微笑んだ。さらに追い打ちをかけるかのように、私をじっと見つめながら言った。
「またな、夏貴」
鼓動がうるさいほどに騒いでいる。
「またなんて日が――」
来るわけないでしょ、と続けようとして言葉を飲んだ。OBOG会に行けば会う確率は非常に高い。しかも例年通りであれば、次は年末か年明けに集まることになるはずだ。
その時までには、この感情の揺らぎが消えていてほしいと思う。以前の私は確かに彼に恋をしていた。しかし今は苦手な人。だから彼に対して、今さら心が動くことなどあるわけがない。彼の声に反応したのは、きっとまだお酒が残っているからに違いない。
心の中で自分にそう言い聞かせていたが、ふと視線を感じて目を上げた。矢嶋が微笑みを浮かべて、私の顔を眺めている。
しかし私と目が合った途端に、その微笑みはいつもの意地悪な笑みにとって代わり、彼はからかうように言った。
「なんだ?俺にいてほしいのか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!帰ってくださいっ」
「素直じゃないなぁ。と、いうか、深夜の大声は近所迷惑になるから静かにな」
「もうっ!」
私は玄関に下りて、彼の胸をぐいぐいと押した。
「あはは。戸締りしっかりしろよ」
「分かってますよ!」
彼の背中がドアにぶつかったと思われた時、頭の上にふわりと何かが当たった気がした。
何――?
その正体を確かめるよりも早く、矢嶋が静かな声で言った。
「おやすみ」
「お、おやすみなさい……」
当たり前すぎる言葉を言われただけなのに、どうしてこんなにと思うほどどきどきした。
矢嶋は自らドアを開ける。優しく見える笑みを浮かべながら今一度私を見て、静かに出て行った。
目の前でドアがパタンと閉まる。
私はその一連の様子をぼんやりと見ながら、今の感触を思い出して頭の上にそっと手を触れた。
まさか、そんなはずないわ――。
ドアロックを下ろして部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。
今までここに矢嶋がいたのが嘘のような静けさだ。
彼が私の名前を柔らかな響きで呼んだことも、私に優しく微笑みかけたことも、そして、もしかしたら私の髪に口づけしたかもしれないことも、仮に現実のことだったとしても、すべてはきっと彼の気まぐれにすぎない。今夜のことは全部、酔っぱらったことが原因の、はっきりしすぎた幻だったのだ。
そう結論づけた私は、今夜はとにかくもう眠ってしまおうとパジャマに着替え始めた。