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「人に話して楽になることって、きっとあると思うよ?」
そんな風に提案する葛葉の肩を、虎石が慌てた様子でかるく小突いた。
「なに?」
「なにじゃねえ! バカかオメーは」
その表情は芯から疑問に満ちており、先の言葉のどこに不備があったのか、とんと検討がつかないようだった。
コイツのこういう所だ。
恐らく俺たちとは、そもそも心の造りが違うんだろう。
上辺では人の気持ちを分かったつもりでいるみたいだが、肝心の機微(きび)ってヤツが解ってねえ。
どこまで踏み込んでいいのかじゃなく、どこまで立ち入らせてくれるかだ。
俺が言えた義理じゃねえが、他人(ひと)の気持ちが分からん奴は化けモンだ。
ふと、誂(あつら)え向きな単語が脳裏をよぎった。
いつだったか、酒に酔っ払ったジジイがうっかりと口を滑らせたことがある。
『あの嬢ちゃん、ひょっとすると──』
「……よくある話ですよ?」
「あ?」
そんな折り、女性がおもむろに発したもので、虎石は思わず舌を空回りさせた。
見れば、幾分にも態度を軟化させた彼女が、こちらに真摯(しんし)な眼を向けている。
さっきの不出来なショック療法が功を奏したと考えるのは、いささか自意識が過ぎるか。
あるいはコイツの眼に、なにかを見たのかも知れない。
「話してくれる?」
“良ければだけど”と、なけなしの愛想を付け加える葛葉の隣、虎石は深々と息をついた。
「……私の故郷(くに)は、まこと絵に描いたような貧国で──」
ロゼッタ地方の片田舎、一年を通じて白銀に閉ざされた辺境の土地は、古くからアイヴァン家という名家の所領だった。
清貧(せいひん)という評価が正しいのかは知れない。
少なくとも、他者を押し退(の)けてまで大事(だいじ)を成そうとする者はひとりも居らず、諸々の気苦労を重ねながらも、現状を保つことに優れた良心的な風土だった。
この時勢にあって、主権というものがどの程度機能するのか定かではない。
ひとえに民衆の統御であったり、思想の単一化。
そういった物事に言及するなら、かの地は大成功を納めたとは言わないまでも、うまい具合に運んでいたのは事実だろう。
そんな国の在りかたに転機が訪れたのは、突如として主家の後継者を名乗る人物が現れた頃。
彼女はある日、ふらりと町にやって来た。
言い分はこうだ。
自分はこの国の正統な血筋であるが、来(きた)るべき時節のため、他所に預けられていたのだと。
最初は誰も取り合わなかったが、よく見ると顔立ちが主家のひとり娘と瓜二つであり、何より先代の形見を携(たずさ)えていたことが決め手となった。
その人物が現れてから、国は大きく変わった。
手始めに事なかれ主義を脱し、現状維持とは名ばかりの停滞を抜け出すのに、そう時間は掛からなかった。
公益の手札は、彼女が生まれ育った土地で盛んに栽培されるヒヤシンスの精油。
これが殊のほか揮(ふる)った結果、近隣諸国の風当たりも次第に和らぎ、厳寒の城下町に一縷(いちる)の灯(ひ)が点(とも)るような気さえした。
「それ、ぜんぜん悪い話ちゃうよね?」
「えぇ……、国にとってはむしろ」
実際、国の立て直しが進めば、そこに住まう人民はおろか、統治筋の血色(けっしょく)も良くなるのが道理だろう。
主家の姉妹仲も良好で、長い長い冬ざれの終わりに、まるで花束を贈られたような気分だった。
「よくある話って、そう言ったよね?」
「えぇ……」
「その人、急に豹変したとか?」
「いえ、そうじゃないんです」
変わったのは、御家の相談役に連なる面々。
中でも、国の舵取りに久しく加担した摂政が、この新風に急遽(きゅうきょ) 異を唱えたのである。
彼の言い分はこうだ。
国が豊かになるのは願ってもないが、強引な施策はいつか必ず息切れをきたす。
この辺りでもう一度、我々の意見も汲(く)んでは頂けないものか。
遠回しな言い方をしてはいるが、これは紛れもなく野心だった。
絶えず雪氷を打ち眺めた瞳に、着々と嵩(かさ)んでゆく純利益は、さぞ眩(まぶし)く映ったに違いない。
「そんで、謀反でも企てた? その摂政とやらは」
「一層(いっそ)そうであれば……。 そうした企てがあれば、楽だったのでしょうが」
物憂い眼差しは、いつしか足元を睨みつけるような儼(げん)たるものに様変わりしていた。
特定の権力者を失脚させる企てが、常に剣呑な手段によって講じられるとは限らない。
むしろ、切った張ったでどうにかなった往古のほうが異常と言えるか。
ただ、そちらのほうが備えやすく御(ぎょ)しやすいのはたしかだろう。
対象を傷つけず、貶(おとし)めず卑(いや)しめず、けれどしっかりと蔑(ないがし)ろにするような手管(てくだ)に長けた者が、世の中には少なからず居る。
「そうゆうのは厄介よな。 向こうが刃物持ち出さない以上」
「えぇ、先に剣を取るわけにはいかない。 もし取ってしまえば──」
この場合、重要なのは世論がどちらに与(くみ)するか。
大勢(たいせい)を味方につける上で、裏付けもなく荒事を持ち出すのは御法度(ごはっと)だろう。
争いを巧(たく)まず、ひたすら静穏にながらえた国柄であれば尚更だ。
その点、彼らは巧妙だった。
連中が目論(もくろ)んだのは、国の転覆ではなく私物化。
それにはまず、傀儡(かいらい)を用立てる必要があった。
カモにされたのは、年端もいかない次女だった。
公(おおやけ)を知る妃(きさき)でもなく、外向きの長女でもない。
深窓(しんそう)に育った小娘は、利用するには打ってつけの好材料だったに違いない。
「……なにされた? その娘(こ)」
「なにも」
「なにも?」
「そう、なにも」
心地よい地獄というものに、想像がつくだろうか。
薄皮をぺりぺりと捲るように、自主性や自制心を少しずつ、少しずつ奪われていく恐怖は。
耳に及ぶ語り口は、つねに角(かど)が目立たぬよう手配りされた慇懃なもの。
誤って窓を割った。
“お見事です”
誤ってキャンドルを倒し、小火(ぼや)が起きた。
“お見事です”
姉の節介がイヤで、ひどい癇癪を起こし、手当たり次第に物を壊してまわった。
“素晴らしい。よくできました”
飼い殺しという表現が、果たして適切なものかは定かでない。
しかし、あの頃はあの頃で幸せだったと、今なお断言できてしまう所に、娘の抱える難点があるのだと思う。
たとえば道端で、ふらりと立ち寄った町村の広場で、“無知は決して罪ではない”と説く者を見るたび、本当にそうだろうかと、私は今でもシニカルな目を向けてしまうのだ。
このご時世だ。
苦労を背負(しょ)い込んだのは、なにもあの娘だけではない。
頭のどこかでは理解している。
第一、あれは苦労ですら無く。 アレは手塩にかけて誉めそやし、甘やかされた結果に産まれた化け物で……。
「堂々巡りになってるよ? あんまり考え込まん方がいい」
「……不思議な人ですね、あなたは。本当に」
先方の声に、頭の奥がじんわりと痺れを来(きた)すような錯覚に見舞われた。
記憶の淵に沈みがちな意識を引き戻す、甘美な疼痛だ。
私はまだ生きている。
ともかく、あの娘(こ)が鍵を壊そうと思い立ったのは、どのような経緯(いきさつ)からだったろう?
あれはそう、安泰を絵に描いた城の内々に、哀しげな亡霊を見るようになったのが事の発端ではなかろうかと、今でも朧気に記憶している。
「Look out!!!」
前触れもなく、ガラスを割りそうな絶叫がスピーカーから突発した。
咄嗟(とっさ)に意識をかえした葛葉は、当面の談話を中断し、ひとまず発信源と目される観覧席へ眼をやった。
どういう訳か、両手にピストルを構えたリースが、片方の銃口を町長に、もう片方をもろ手を上げて戦(おのの)く来賓の面々に突きつけている。
「あ……!」
理解が追いつかぬまま、その目線が示す先を追って、たちまち息を呑んだ。
長大な橋桁を思わせるトラス梁が、今まさに崩れ落ちようとしていた。
のみならず、これに纏(まつ)わる稼働屋根はおろか、白々と凍み氷った陸屋根(ろくやね)の一部を道連れにする形で、ゆっくりと崩落を始めていた。