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立秋 芽々(りしゅう めめ)
6
白いカーテンが揺れ、爽やかな風が病室に広まる。
ベッドの上の少女の髪がわずかに揺れる。
――少女は、眠ったままだった。
「……今日も、起きないね」
椅子に腰掛けた春は、心に小さく笑ってみせた。
けれど、その声はすぐに震えて消えてしまう。
心が倒れたのは、春が十六歳になったばかりの頃だった。
原因不明の病。
眠ったまま、目を覚まさない。
医者は「意識はあるかもしれません」と言った。
けれど、それが本当なのか誰にも分からなかった。
春は毎日、学校帰りに病院へ来た。
本を読んだり、今日の出来事を話したり、くだらない話で笑ったり。
心は返事をしない。
それでも春は話し続けた。
まるで、心がそこにいるみたいに。
その頃、心は深い海の底にいた。
どこまでも青く、静かな海。
光は遠く、揺れている。
心は海の底を裸足で歩いていた。
冷たくはない。
苦しくもない。
ただ静かで、眠たい世界だった。
「……」
心は海面を見上げる。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
ぼんやりと。
泡越しに。
『今日ね、クラスでね……』
春の声だ。
心は少しだけ笑う。
「そっか」
返事をしても、その声は届かない。
海は深すぎた。
季節が変わる。
春になり、夏になり、秋が過ぎる。
病室の窓辺には、時々花が置かれた。
春が持ってきたものだ。
「心、覚えてる? 海、行きたいって言ってたよね」
春はリンゴを剥きながら言った。
「泳げないくせに笑」
少し笑う。
でも、次の瞬間には泣きそうな顔になる。
「……起きてよ。」
その言葉だけは、小さかった。
海の底で、心は一人きりだった。
けれど最近、身体が重かった。
歩くたび、足元へ沈んでいく。
もっと深く。
もっと暗い場所へ。
頭上の光も、遠くなっていく。
『……起きてよ』
春の声が聞こえた。
心は立ち止まる。
胸が少し痛む。
「春ちゃん」
名前を呼ぶ。
けれど、泡になって消えるだけ。
心は、自分が少しずつ沈んでいることを知っていた。
もう戻れない場所へ向かっていることも。
冬の夜。
病院には雪が降っていた。
春はベッドのそばで眠ってしまっていた。
机には読みかけの小説。
冷めた缶ココア。
そして、繋がれたままの心電図の音。
規則正しい音が、静かに響く。
春は夢を見た。
海だった。
青くて暗い海。
その中に、白いワンピースの少女が立っていた。
『春ちゃん』
その声は心だった。
「……心?」
『ごめんね。もうそっちにはいけない…』
「え?やだ、やだ!まだ心と話してたい。」
「まだ心と思い出を作りたいよ…!」
『ごめんね。』
「ねぇやだよ?」
春は首を振る。
「帰ってきてよ」
心は少し困ったように笑う。
『春と出会ってから全てが楽しかった。』
『春と過ごせてよかった。ありがとう…!』
『私ね、もう沈んじゃうみたい』
「そんなの、嫌だ……!嫌だ!!!」
『…でもね、不思議と怖くないの。』
『……春がそばにいてくれてるからかなぁ?』
海が静かに揺れる。
まるで眠りの中みたいに。
『春ちゃんが、いっぱい呼んでくれたから』
心は目を細めた。
『一人じゃなかったよ』
その瞬間、春の視界が滲む。
涙なのか、海水なのか分からなかった。
「行かないで!ねぇ!帰ってきて……」
ようやく絞り出した声は、子どもみたいだった。
心は答えない。
ただゆっくり後ろへ下がっていく。
暗い海の底へ。
『春ちゃん』
最後に。
本当に最後に。
『ありがとう』
白い姿が、深い青へ溶けて消えた。
ピ――――――。
春が目を覚ました時、病室は静まり返っていた。
機械音だけが、細く長く響いている。
「……心?」
返事はない。
医者が「…xx時xx分x月x日水宮 心様ご臨終です…」
春は震える手で、心の手に触れた。
冷たかった。
けれど、不思議と穏やかな顔をしていた。
まるで、本当に深い眠りについただけみたいに。
葬儀の日。
空は海みたいに青かった。
春は一人、防波堤に座っていた。
冬の海は静かだった。
「心…」
波が寄せては返す。
「そっちは綺麗?」
返事はない。
でも春は、少しだけ笑った。
あの子はきっと今も、どこか深い海の底で眠っている。
静かに。
穏やかに。
もう苦しまなくていい場所で。
春は冷たい風の中、小さく呟いた。
「、またね…。」
その声は、波音に優しく溶けていった。
コメント
17件
うわぁ…読んでて胸がぎゅーってなった😢💔 春ちゃんの「起きてよ」が毎日届いてて、心ちゃんもちゃんと聞こえてたのに届かなくて…でも最後の夢の中でお互いに伝え合えたの、尊すぎて涙止まらなかったよ🥺✨『一人じゃなかったよ』って心ちゃんが言えたのは、春ちゃんがずっと話しかけ続けたからだよね…それがもう切なすぎてしんどい😭💕 海の底の描写もすごく綺麗で、最後の「またね」に全部詰まってる気がした…✨