テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
白いカーテンが揺れ、爽やかな風が病室に広まる。
ベッドの上の少女の髪がわずかに揺れる。
――少女は、眠ったままだった。
「……今日も、起きないね」
椅子に腰掛けた春は、心に小さく笑ってみせた。
けれど、その声はすぐに震えて消えてしまう。
心が倒れたのは、春が十六歳になったばかりの頃だった。
原因不明の病。
眠ったまま、目を覚まさない。
医者は「意識はあるかもしれません」と言った。
けれど、それが本当なのか誰にも分からなかった。
春は毎日、学校帰りに病院へ来た。
本を読んだり、今日の出来事を話したり、くだらない話で笑ったり。
心は返事をしない。
それでも春は話し続けた。
まるで、心がそこにいるみたいに。
その頃、心は深い海の底にいた。
どこまでも青く、静かな海。
光は遠く、揺れている。
心は海の底を裸足で歩いていた。
冷たくはない。
苦しくもない。
ただ静かで、眠たい世界だった。
「……」
心は海面を見上げる。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
ぼんやりと。
泡越しに。
『今日ね、クラスでね……』
春の声だ。
心は少しだけ笑う。
「そっか」
返事をしても、その声は届かない。
海は深すぎた。
季節が変わる。
春になり、夏になり、秋が過ぎる。
病室の窓辺には、時々花が置かれた。
春が持ってきたものだ。
「心、覚えてる? 海、行きたいって言ってたよね」
春はリンゴを剥きながら言った。
「泳げないくせに笑」
少し笑う。
でも、次の瞬間には泣きそうな顔になる。
「……起きてよ。」
その言葉だけは、小さかった。
海の底で、心は一人きりだった。
けれど最近、身体が重かった。
歩くたび、足元へ沈んでいく。
もっと深く。
もっと暗い場所へ。
頭上の光も、遠くなっていく。
『……起きてよ』
春の声が聞こえた。
心は立ち止まる。
胸が少し痛む。
「春ちゃん」
名前を呼ぶ。
けれど、泡になって消えるだけ。
心は、自分が少しずつ沈んでいることを知っていた。
もう戻れない場所へ向かっていることも。
冬の夜。
病院には雪が降っていた。
春はベッドのそばで眠ってしまっていた。
机には読みかけの小説。
冷めた缶ココア。
そして、繋がれたままの心電図の音。
規則正しい音が、静かに響く。
春は夢を見た。
海だった。
青くて暗い海。
その中に、白いワンピースの少女が立っていた。
『春ちゃん』
その声は心だった。
「……心?」
『ごめんね。もうそっちにはいけない…』
「え?やだ、やだ!まだ心と話してたい。」
「まだ心と思い出を作りたいよ…!」
『ごめんね。』
「ねぇやだよ?」
春は首を振る。
「帰ってきてよ」
心は少し困ったように笑う。
『春と出会ってから全てが楽しかった。』
『春と過ごせてよかった。ありがとう…!』
『私ね、もう沈んじゃうみたい』
「そんなの、嫌だ……!嫌だ!!!」
『…でもね、不思議と怖くないの。』
『……春がそばにいてくれてるからかなぁ?』
海が静かに揺れる。
まるで眠りの中みたいに。
『春ちゃんが、いっぱい呼んでくれたから』
心は目を細めた。
『一人じゃなかったよ』
その瞬間、春の視界が滲む。
涙なのか、海水なのか分からなかった。
「行かないで!ねぇ!帰ってきて……」
ようやく絞り出した声は、子どもみたいだった。
心は答えない。
ただゆっくり後ろへ下がっていく。
暗い海の底へ。
『春ちゃん』
最後に。
本当に最後に。
『ありがとう』
白い姿が、深い青へ溶けて消えた。
ピ――――――。
春が目を覚ました時、病室は静まり返っていた。
機械音だけが、細く長く響いている。
「……心?」
返事はない。
医者が「…xx時xx分x月x日水宮 心様ご臨終です…」
春は震える手で、心の手に触れた。
冷たかった。
けれど、不思議と穏やかな顔をしていた。
まるで、本当に深い眠りについただけみたいに。
葬儀の日。
空は海みたいに青かった。
春は一人、防波堤に座っていた。
冬の海は静かだった。
「心…」
波が寄せては返す。
「そっちは綺麗?」
返事はない。
でも春は、少しだけ笑った。
あの子はきっと今も、どこか深い海の底で眠っている。
静かに。
穏やかに。
もう苦しまなくていい場所で。
春は冷たい風の中、小さく呟いた。
「、またね…。」
その声は、波音に優しく溶けていった。
132
#切ない
コメント
9件
うわぁ…読んでて胸がぎゅーってなった😢💔 春ちゃんの「起きてよ」が毎日届いてて、心ちゃんもちゃんと聞こえてたのに届かなくて…でも最後の夢の中でお互いに伝え合えたの、尊すぎて涙止まらなかったよ🥺✨『一人じゃなかったよ』って心ちゃんが言えたのは、春ちゃんがずっと話しかけ続けたからだよね…それがもう切なすぎてしんどい😭💕 海の底の描写もすごく綺麗で、最後の「またね」に全部詰まってる気がした…✨