テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第6話:痛みの記録者
午後3時、都内のアートギャラリーを改装した個人スタジオ。
壁には、表情のない顔を断続的に映し出す映像作品が投影されていた。
音はない。
ただ、沈黙の中に“痛みだけが息をしている”ような空間だった。
長テーブルの前にいたのは、山崎ルイ(やまざき・るい)。
30代前半、長身でやせ型。
片側を刈り上げたアシンメトリーなボブカットに、グレージュのリップと眉。
白いノースリーブシャツにスモーキーなワイドパンツ。左耳に三連のピアス。
指の動きはとても静かで、ひとつひとつの所作が“見せるための美しさ”を持っている。
「“痛み”って、喜怒哀楽よりも素直なんです。
私は、それを一番“無言で語る感情”だと思ってる」
彼女の対面に立つのは、イタカ。
この日は、黒のシャツにグレーのスラックス。
首元のボタンを一つだけ開けており、髪は後ろで結ばず、片目が前髪で隠れていた。
頬の下にかすかに青痕が残っている。
「つまり、“他者の痛み”をあなたの作品素材にする。
私の役割は、“素材になれるだけの苦しみ”を、用意することですね」
ルイはうなずく。
「うん。演技じゃなくて、本当に痛みを受けている身体の、微細な反応が欲しいの」
「いいですね」
イタカの声は低く落ち着いていたが、
その瞳には“わずかな笑い”がにじんでいた。
まるで、楽しみにしていた舞台へ上がる前の俳優のような眼差しだった。
彼は、黒い革のファイルを取り出し、テーブルの上に静かに置いた。
表紙は艶消しの白。依頼の内容に合わせ、記録表現特化型のレイアウトになっている。
「内容をご説明します。
今回のご依頼は、“痛みの芸術的記録”として扱われます。
これは通常の代行体験とは異なり、倫理的に繊細な枠に分類されます」
【代行体験契約書:S.P-1291】
依頼者:山崎ルイ
体験者:イタカ
目的:感情・神経反応を“作品素材”として記録する
再現:
① 電気刺激による継続的苦痛(皮膚)
② 感情増幅剤投与による“孤独感”の誘発
③ 密室3時間拘束+監視除外
出力:
・筋肉反応グラフ
・微表情パターンマップ
・神経応答映像(モノクロ)
・音声記録(自発語・呻き・呼吸含む)
フィルター:依頼者の指示により強度調整可
ルイがペンを取るまで、イタカは姿勢を正して待ち続けた。
「……もし、あなたが“これ以上は見たくない”と思ったら、
記録は即時暗転に切り替えられます。
逆に、“もっと奥を”と望まれた場合は、深度制御を私が判断します」
「私は、**“誰かの痛みを尊重して記録する”**つもりです。
だから、その痛みを、ちゃんと“受け取る準備”はできてます」
ルイの声は静かで冷たく、そして迷いがなかった。
「いいですね」
イタカは小さく息を吸い、サイン済みの契約書を丁寧に閉じた。
「では、私は素材になります。
ちゃんと痛がります。ちゃんと“誰にも見られない痛み”を感じます。
……そういうの、好きなんで」
2日後。
密室体験ルーム。音のない空間に、ひとつの椅子。
イタカは装置に身を任せ、腕には数本のケーブル、足には微電流パッチが固定されていた。
視線センサーは非稼働。
**「誰にも見られていない」**という状態を演出するため、全記録は背後からのみ。
孤独誘導薬が注射された直後、
彼の表情が、わずかに歪む。
「……う、ん……この“ひとり”の感じ……背中、きしむ……」
その声はかすれていたが、どこか“楽しい”響きも残していた。
痛みに耐えながら、心の奥が揺れる瞬間を知ることは、
イタカにとっては仕事であり、ある種の快感でもあった。
呼吸の乱れ、うっすら浮いた汗、筋肉のわずかなけいれん。
イタカの体は、**“作品になる痛み”**を淡々と生んでいった。
数日後。
山崎ルイのスタジオには、無音の記録映像と共に、微表情と筋反応のマッピングデータが届いた。
彼女は映像を再生せず、
まず“筋肉の反応グラフ”だけを見つめていた。
その中で、**「喉が鳴る1秒前」**の揺れだけを抜き出し、こうつぶやく。
「……これが、人間が“誰にも届かない”ときの震え。
……美しい」
同封の手紙には、イタカの筆跡でこうあった。
> “誰にも見られていない痛み”ほど、
人は素直に、苦しみの中で“本当の自分”になります。
それをあなたがどう記録し、表現し、
未来にどう残すか――
私は、それを楽しみにしています。
その日の夕暮れ。
イタカは小さな喫茶店で、ひとりラテを飲んでいた。
右手は包帯、視線はどこか遠い。
「“見られない痛み”って、ホント危ないな……。
……けど、やっぱり、好きだ」
声にならない笑いが、彼の唇をすっとゆがめた。
彼は次の依頼に向けて、ゆっくりと席を立った。